子どもに携帯電話を持たせるかどうか、話題になっている。支持率が20%を切るような総理大臣が、携帯電話の小中学生への普及に関し「子どもに及ぼす影響について考えないといけない」と改めて懸念を示し
て、治安対策の担当者に検討を指示したとのこと。彼は、以前にも、携帯電話を子どもが使うことについて、悪いことの方が多い。ろくなことがないと発言している。
教育再生懇談会が小中学生を有害情報から守るために、携帯電話の所持を制限すべきと言う提言を中間報告書に盛り込む予定とのこと。つまり、ケータイを巡るトラブルに子どもが巻き込まれた場合、ケータイを持つ(持たせる)側に落ち度があると認めることになる、という奥村弁護士の警告は興味深い。
数百万人の子どもたちが携帯電話を所有していて、犯罪などに巻き込まれる率がどれくらいか。悪いこともあるかも知れないが、悪いことばかりではないだろう。というか、子どもを取り巻くさまざまな環境は携帯電話以外にも悪いことが結構あるように思う。結局、便利な道具をどのように使うか、と言うことが問題になっている。
いまさら、携帯電話のない生活など考えられない。というような話をしばしば目にする。
私は携帯電話を持っていないが普通に生活しているから、なくても別にどうということがないことは分かるのだが、例えば、普段洗濯機を使っている人にいきなり桶で洗えといってもきついだろう。炊飯器は今後使用禁止とか、テレビは見るなとか。
携帯もたせたって別に良いんじゃないの。よく知らないんだけれど。
もったり、使ったりすることは問題がないと思う。むしろ、私が問題に感じているのはコストだ。随分掛かるんでしょ。それを親が負担するわけよね。お小遣い程度の金額で済むなら良いんだけれど。それから、携帯電話に依存する人がいるみたいね。前の職場で、トイレで小用を済ませるときも右手に携帯電話を持っている人がいた。車を運転しながら、携帯電話を弄るのは、居眠り運転と同じくらい危ないと思う。自転車乗りながら携帯を弄くるのは危ないと思う。若いお二人が自転車二人乗りして、前の彼女も後ろの彼も、二人して携帯を弄っているのを見ると、二人の信頼関係の厚さに驚くんだけれども、その信頼の根拠は一種の幻想だ。まぁ、みんな今日も怪我をせずに過ごせて良かった。そのうちにケータイ弄りながら転倒して怪我をする人が続出して、小学生が意識不明の重体になれば「足元ケータイ」がどこかのキャリアから登場するに違いない。弄りながら歩いても怪我をしないように、足元を写す専用のCCDとモニタが装備されている。
あと、トイレで使っても不衛生にならないように、携帯電話用のエア布巾装備のトイレがどこかに登場するだろう。
携帯電話にB-CUSカードが組み込まれて、そのうちにケータイユーザー以外はNHKを観られなくなるかも知れない。この世の中から公衆電話が消え去って、ケータイを持たない人が事件に巻き込まれて110番通報が出来ずに殺害される痛ましい事件が起こり、政府は「ケータイ難民」対策に頭を痛めるかもしれない。
子どもたちが事件に巻き込まれるのは、ネットワークよりもむしろ、親子関係の断絶の方が問題なのではないか。ケータイに責任を押しつけるなよ。
さまざまな事件のニュースが流れる中、無防備に同じ轍を踏むほど我が子が阿呆とは思わない。
子どもの権利を制限するよりも、悪い人たちを厳しく罰する方が先決ではないのか。
オートバイの3無い運動にに居ている。大人は良くて、子どもはダメというのは全く筋が通らない。体に悪いのか。わるい大人につながるから良くないのか。ならば、わるい大人をケータイネットワークから閉め出すのが筋ではないのか。
私は当面、ケータイネットワークに参加するつもりはない。子どもたちは色々な事情で、ケータイを持つことになるかも知れない。
携帯電話はタバコに似ている。あと10年後、ケータイ電話を人前で使うことが不作法とされる世の中がくるに違いない。嫌ケータイを申し出ることが、世の中のマナーとして当然のことになる。ケータイユーザーに肩身の狭い世の中がやってくることを期待している。