仕事と家族と、いくつかのことを両立させる。
機嫌良く仕事をしている。私の仕事はエンドレスだ。やり始めるときりがない。自己規制が必要なのだが、それが簡単にできれば苦労はない。
職場の仕事は、頼まれ仕事、客商売の部分、自分が好きでやる仕事、に区別できる。そして家に帰ると家族の一員として責任を果たさなくてはならない。もちろん、妻は私の負担を少しでも軽くするために苦心してくれるが、他人に任せきりに出来ない貧乏くささが私の個性だ。
自分の趣味の部分、このウエブページの作製もそのうちなのだが、それらは後回しになる。転居して以来、パソコンの置き場は私の書斎のような一階の玄関脇の部屋に移った。テレビは二階の居間にある。テレビをちらちらと眺めながら、こういった作業をすることは不可能になった。
ま、ながら作業は良くないが、テレビから学ぶこともいろいろある。ことに、テレビが伝える世の中の世相のようなものに、ほぼ背を向けることになる。結局、本当に見たい番組のみを見る。見たくもない番組を見ることの重要性もまた心得ているつもりなのだが、実現は困難だ。唯一、息子と風呂にはいるときに風呂場の小さなテレビで、息子が見る番組を、ヤメレといいながら、ちらちらと眺める程度。
パソコンに向かい、何かしようとすると眠くなる。こういった作業は概ね午前3時半ころまでかかる。私はドリームウィーバーというソフトを使って、いろいろと作業効率を上げるために工夫している。また、上等なキーボードやトラックボールを選んで少しでも能率を上げるように工夫している。BGMも選んで、やる気が増すような雰囲気作りに努めているが、それでもせいぜい週に一度が限界だ。土曜日に夜更かしが標準的なのだが、日曜日に何か予定が入るとそれも難しくなる。ビールを飲んだりするとますます難しくなる。コーヒーにしよう。
テキストを画像に置き換える人が居る。テキストをわざわざ二次元の画像データとして、ネット上に公開するわけだ。
困ったものである。
しかし、困ってばかりも居られない。テキストの画像化に伴う利点と欠点をまずならべてみる。考慮すべきはそれを利用する立場の違いである。文書の作成者として、あるいはその記事を閲覧する立場、さらには閲覧した上で言及しようとする立場、それぞれで利害が異なるのは当然だろう。
こうして並べてみると、テキストの画像化で唯一、作製側と閲覧側に共通する利点は、画像と組み合わせたテキストの表示など、画像処理ソフトを用いたレイアウトが実現すること。それが必要かどうかは考慮の余地があるし、一種のプレゼンテーションとして画像を作るスキルとさらにはセンスが必要になってくる。上手にやれば、テキストのみで伝わり難い情報を伝えることが出来るだろう。
というわけで、プロが上手にやったら役に立つ場合がある。素人はやめとけ、というのが私の見解です。
情報を伝える上で必要なこと。
ただ、読んで貰いたいとおもうなら、そのようなことは全く無駄だ。しかし、なぜそのような無駄なことをするのか。インターネットにはそのようなものがあふれている。見たことがあって、やってみると出来るからやるのだ。そのことが閲覧者に及ぼす影響まで、素人は考えない。大変読みにくくなる。読み手が努力するとたいていの場合は読むことが出来る。
私もやったことがある。かつて、米国に住む友人に我が家の様子を伝えようと思ったときにやった。日本語は文字化けしてしまう、と聞いた。日本語で画像化した。好評だった。しかし、この頃のOSはマルチリンガルだから、日本語が文字化けする心配は余り要らないと思う。また、今にして思えば、作った画像をメールに添付して送ることも出来たはずだ。
画像が必要となる場面はいろいろある。テキストといっても、結局はパソコン画面でブラウジングされる。ビットマップの点の集合に置換されるわけだ。パソコン画面のキャプチャが作り出したTIFF画像と、ウエブブラウザがスタイルシートによって表現するテキストを即座に区別することは、ほとんど不可能だ。つまり、画像化されているから読みにくいというのは、ウソである。また、テキストが画像化されたから、正しいものが間違ったものになるわけでもない。受け手に伝わる情報の質は、実は変わらないのではないか。
ある種の解説記事などで、テキストと画像を組み合わせて全体を画像化したイラスト入り文書を見かけることがある。そういう物は時に極めて重要な情報だったりする。画像が表示されない場合にも意図が通じるような配慮が必要だ。代替テキストや、画像を使わないalternativeなページを用意しておくべきだろう。テキストの画像化は大抵プロフェッショナルの作業である。私のような素人には、プレーンテキストより読みやすいテキスト画像を作ることは難しい。
データを有効活用すること
アイコンと割り切るなら、画像を使うこともアリだ。そういうのが好きな人には受けるかも知れない。しかし、HTMLをちょっと勉強して、自分の作ったりソースの再利用を考慮するようになってから、そのようなことは一切止めてしまった。ロゴ入りの画像は他の用途に使い回し出来ない。
データを有効活用することを考える。テキストデータをわざわざ画像化することで、データは行き止まりになり、有効な利用が著しく妨げられる。だから、二次利用などを防ぐためにやるという考え方はあるだろう。但し、誰かが読み取ってテキストに変換するかも知れないし、また、画像として再利用されると、寧ろ厄介かも知れない。
その昔、パソコンはなんと役に立つのだろうと、しみじみ思ったのは、初めてマックにさわってドローデータの扱いを知ったときである。ドローとペイント。今では、ベクターとビットマップと呼ぶのかも知れない。
さて、学術論文をイメージしてみよう。論文ではテキストの中にFigureがいくつか含まれる。Figureは二次元の広がりをもった図である。写真であったり線画だったりするが、明らかにテキストで置き換えられない部分である。FiugureにはLegendsといわれる説明書きがついているが、それらはテキストである。本来、画像で表現する部分と文字で表現する部分は厳密に区分されるべきだ。
一方で、画像化により、わかりやすくなることもあるだろう。何より、テキストの弱点は、行に支配されることだ。原則、左から右、否応なしに一行が単位と見なされる。これはコンピュータを使ってモニタ上に表現する場合避けて通れぬ。画像化すると、斜めだろうが、縦だろうが自由に混ぜることが出来る。凝ったレイアウトが可能である。一方で、画像は完全なソリッドデザインになり、閲覧する側の選択肢は、画像を表示するかどうか。のみとなる。
また、ウエブブラウジングする際に、私はしばしばテキストをドラグしながら読んでいく。ブラウザ画面上に無粋な長方形の画像ファイルがあって、その中にビットマップでテキストが配置されていると、それは私の閲覧スタイルにとって大変厄介な話だ。
まぁ、何をどう表現するのも自由なのだが、代替となるテキストを表示する手段を残して欲しいと思う。
なぜ、このような馬鹿馬鹿しいことをやるのか。悶々と考えていて気付いた。これは馬鹿馬鹿しくないのではないか。
いろいろな理由で馬鹿げている。しかし、そのばかばかしさに気がつかない人もいるらしい。なぜか。ウエブ作製者は、自分の目の前にあるパソコンと自分の閲覧スタイルを標準的なものと思いこむ。私は元々マックユーザーで少数派であることを自覚しているが、それでも、たまにウインドウズで自分のウエブページを眺めて落胆する。そのギャップを埋める手段が画像化である。
私は自分からマックユーザーであることを選んだ。他の多くの閲覧者たちと違う環境でその画像を含むウエブページを見ている。私が作っているウエブページは、他の人のパソコンでは私が期待しているように見えているわけではないと、私はずいぶん早い時期に気がついた。だから、私は適切にマークアップすることに拘る。表示そのものはどうでも良いという見解である。つうか、私は少数派で、他の多数派に配慮するのが面倒なのだ。面倒だから、どうぞご勝手に、と思う。取りあえず私の責任は私のウエブページを適切にマークアップするところまで。
あとは、それを見る側のパソコンさんとユーザーエージェントさんが適当に、あなた方の見やすいようにウインドウの中に表示してくれる。いろんな見方をする人が居るはずだから、そういう人たちの邪魔をしないように。つまり、立派なパソコンでも、古いパソコンでも、ウインドウズでもマックでも、まぁまぁ見られるように。少しぐらいはずれるかも知れません。でも、読めるはずです。
テキスト画像を作って、それをGIFやらJPEG、PNGファイルとして<img src="URL">で貼り付けるということは、この世のいろいろな人たちのユーザーエージェントさんたちの仕事を、ウエブ作成者が肩代わりするってこと。まぁ、ご苦労さん。最新のビスタのことは良くわかんないけれど、Macintosh OSXのアンチエイリアス表示になれている人は、ウインドウズのギザギザ表示にうんざりする。
私は敢えてマックを選び、応分のコストを負担し、それなりの苦労をしつつ自分の環境を整え素晴らしくきれいな表示に満足しているのだが、そのようなことはお構いなしの誰かさんが、ウインドウズのギザギザテキストをそのまま画像にして私のユーザーエージェントに配るわけだ。
まめ文字だったり、色が薄かったり、読みにくいときは取りあえずスタイルシートを解除するとか、ユーザースタイルを被せるとか、いくつかの手段があるのだが、画像化されたテキストは、そのいずれも通用しない。これを読んでくださいと、渡されるビラと同じだ。
はぁ〜どうしよう。あとで読むよ、と、折りたたんでポケットに入れたきり、次にその服を着るまでタンスにしまい込まれる運命。要するに私は読まない。それが極めて自分にとって重要な何かであることが分かっている場合には、努力する。
前回に続き、自宅で使っているメールの話。全く、何の興味もないスパムメールが私のメールボックスを埋める。その数は一日50通以上。
私が読む必要があるメールは一日に2-3通ほど。迷惑なメールのほとんどは、夢のような金儲けの話や、ヒモ募集中とか、あなたが当選しましたとか、権利が生じましたとか、後腐れのない肉体関係がどうのこうのとか、とにかくお金を差し上げます。とにかく性的な交渉をもちたいとか、あるいは、海外から薬の情報とか、そういうタイトル。内容の方は開かずにゴミ箱行きなので、分かりません。この頃のスパムがほとんどスパムフィルターにかからなくなったのはどうしてかな。出す方も進歩しているのかも。
スパムに埋もれた読むべきメールを見つけ出すのは簡単ではない。だから、私にメールを送るときは、メールの表題に何か工夫をした方がよいです。
それよりも、むしろ、「必要なメールフィルタ」を使った方がよいかも。必要なメールをスパムフィルタに登録して、迷惑メールボックスに入れて選別する。この頃の状況をみると、その方が現実的かもしれない。
そういうアイディアはどうですか?
忙しすぎ。両立させる方策を模索中。