リンクの自由について考える(2004-04-25)

改めて、リンクの自由について

ちょっと前に、著作権や、リソースの二次利用について意見を書いた。その直後に、実際に私が経験したことについて触れておく。アクセス解析に見慣れぬリファラーを見つけ、そのページを見に行くと、とあるブログ(って、何なのか、今ひとつ分かっていないが)に出くわし、驚いた。おやこニュースで紹介した画像が二つ、見知らぬ人のウエブページに貼り付けてあった。

女性の方の日記で、「子供と公園で遊んだ」、と云う内容。その公園の遊具の紹介のために、我が家の子供たちが滑り台で遊んでいる写真を使っていたのだ。資料映像というわけである。画像には、おやこニュースのアドレスが引用元として添えられ、出典を明示していた。リソースを二次利用されたというわけである。その後、引用なさったそのページの管理人の方が、掲示板に写真の転載を申し入れしてきた。事後承諾となったお詫びも書き添えられていた。

ウエブ管理人の一般常識として、どうだろう?引用なさった管理人は、おやこニュースをおそらく検索で見つけて、写真を気に入って下さったのだろう。私は、リソースの二次利用は、止めることが出来ないと思っている。引用元も表示して下さっているし、但し書きつきで問題なし、と返事をした。

実際に二次利用されてみて、余り良い気持ちがしなかったのは、そのページに我が家の子供たちの画像を掲載する必然性が感じられず、意図が良くわからなかったからだ。引用として、余り適切でない様に思えたのだ。私は、自分のページで、遊具の紹介ではなく、遊具で楽しく遊んだことを知らせるために、その画像を使った。我が家の子供たちを紹介させて欲しい、と云う話なら、その画像でも良いだろう。しかし、彼女は単に公園にあった遊具を画像として出したいだけなのだ。それを見た人は、画像の中の子供たちを、彼女の子供と思うことだろう。誤解を与えるわけだ。どうしてそのページにその画像が必要なのかも、私には理解できなかった。おやこニュースのページをリンクとして提供すれば、それで済むことで、その方が閲覧者にとって親切と思う。ただ、管理人がそうしたいと思うことに、私が口を出すことではないし、ページ構成上のアドバイスは、単なるお節介だ。私は、自分のサイトのコンテンツの引用、リンク、二次利用について、やむを得ぬものと諦めることにしている。今回の管理人はむしろ、そういったルールに気を遣う意志を持っている。

もう一つの問題は、引用する側が、他人のリソースを管理する責任を背負い込むことになる点だ。今回のようなケースで、少なくとも道義的な責任は感じることだろう。殊に、顔写真はプライバシー保護の問題を生じる。私自身は、自分のサイトに掲載する画像は、プライバシーに気を遣っているつもりだ。我が家のメンバー以外の顔が分かる写真はほとんど無いはずである。そういった意味で、他人の子供の写真を自分のページに載せる管理人の無神経さに、少々困惑した。加えて、他人にリソースを渡してしまうと、自分で管理出来なくなる点が厄介だ。とりあえず、可能であれば、画像は直接リンクしてもらうようにお願いしたところ、そうなった。私の意志で削除出来ると考えたからである。直接リンクによる引用は、その点を解決する手段のひとつであるけれど、問題を理解し、リクエストに応じてくれる引用者に対してのみ有効な手段と云うことになる。

リンクの自由というお題目は、かなり難しい問題を含んでいる。他人をコントロールすることが出来ないことは当然で、自分が決めたルールは、自分のサイトのみで有効なのだ。他のサイトが何をしようと、個人としてのウエブサイト管理人は見て見ぬふりをするしかないのではないか。一般に不正な引用。リンクと云われる、フレーム内リンクなどに気が付いたところで、わざわざウエブ上の一般的と云われるルールを教授してあげるほど、お節介でも暇でもないし、相手方が盗用を承知している場合は、多分何を言っても無駄だろう。「法的手段に、」と云うような、余り愉快でないやりとりをしなくてはならないかもしれない。

リンクを拒絶する自由とは?

客観的に、リンクには三つの立場があると考える。

  1. リンクされる側
  2. リンクする側
  3. 閲覧し、リンクを辿る側

ウエブ管理人は、2:リンクする立場、として、能動的にリンクをおこなう。一般にリンクの自由と云っているのは、この立場を自由に行使すると云う話だろう。リンクする立場は、3:リンクを辿る側の立場と、ほぼ利害が一致する。1:リンクされる側の立場に自由はあるか?つまり、被リンクを選択すること、気に入らない被リンクを拒絶する権利があるかどうか。リンクの方法によっては、著作権法などで守られるべき権利はあるのだろうと思う。しかし、その権利を行使することは、気に入らない被リンクを受け入れる以上の困難や、苦痛を伴うのではないかと想像する。たまたま目にしたいくつかの事例は、端から見て苦痛に満ちたものだった。ウエブ上のリンクのみで繋がりを持つ、全く見も知らぬ他人に、自分の利害関係を説明し、権利について配慮を要請することは、実に難しいことで、結局、罵り合いになる覚悟が必要だろう。正当な権利を主張しているはずの自分の立場が、いつの間にか、相容れない人たちから実に不本意な評価を受ける可能性が大である。

ウエブ管理人として取りうる選択肢は四つあるだろう。

  1. あくまで、自分の立場を主張し、被リンク先の管理人を説得すること。
  2. ウエブページの管理、運営を止めてしまうこと。
  3. あらゆる被リンクを無条件に受け入れると決心すること。
  4. 適切なリンク・参照の方法について、啓蒙活動をおこなうこと。

今のところ、私の選択は、3・4である。被リンクフリー原理主義と言っていいかもしれない。そのような立場を取る上の原則を並べておく。

  1. リンクに関する注意事項を書かない。または、「ご自由に」とひとこと。
  2. あらゆる被リンクを容認する。
  3. 自サイトから他サイトへのリンクは適切に行う。
  4. リンクを拒否するサイトへリンクしない。
  5. アクセス解析を取っ払えばホンモノ。

十分さぼった二週間。某アンテナの補足から外れ、羽を伸ばしていたこの頃でした。

無断リンク禁止教 

と、ここまで書いたところで、示唆に富んだ記事を見つけました。いろいろ書いてある中で、上記、被リンクを拒絶すると云う点に関係する部分を抜粋。

無断リンク禁止教では、いろいろと細かな注文がつけられていることが多い。誰かが発明した項目は、次々とコピーされて受け継がれ、発明が起きるたびに項目数が増大していくのである。代表的な発明には以下のものがある。

  1. リンクはトップページにしてください
  2. 名誉や品位を汚すおそれのある場合はリンクをお断りします
  3. 法令等に違反し又は違反するおそれがある内容を含むものはお断りします
  4. 必ず○○へのリンクである旨が分かるようにしてください
  5. フレームの中に弊社のウェブサイトを取り込んだ形のリンクをしないでください
  6. リンクは必ず新しいウィンドウで開くようにしてください

このうち妥当と言える要求は、5.だけである。リンク元が法令に違反しているものを断ってどうなるというのか。品位を汚す恐れがあるというだけでリンク元の言論を妨げて何の意味があるのか。(強調は、引用者による)

高木浩光@茨城県つくば市の日記、2004-4-26,アドレスバーへの無理解が広げる「無断リンク禁止教」

2,3:について、言論の自由を根拠とした高木氏の主張は明快である。しかし、この点は、小学校的民主主義者 ーー廊下は走ってはいけないことを理解していながら、それがどれほど自分に危険をもたらし、他人の迷惑になるかを認識していない人たちーー に、理解させるのは難しいだろう。

先日書いた、「リンクを拒絶する自由」には、言論の自由という視点が欠如していた。「改めて、リンクの自由について」では、他人をコントロールすることが出来ないことは当然で、自分が決めたルールは、自分のサイトのみで有効なのだ。他のサイトが何をしようと、個人としてのウエブサイト管理人は見て見ぬふりをするしかないのではないか。と、書いたが、これは即ち、他者の言論の自由を認める、と、言葉を置き換えるべきだろう。見て見ぬふり、というのは、要するに、言論の自由を冒さざるべし、と云うべきだ。

他人のリソースの内容(リンクもリソースのうち)にとやかく言うことは、言論の自由を妨げる行為である、と云う認識に立つと、これは別段WWWにおける特殊な習慣と云うわけではなく、日常生活でも普遍的なことだ。ネットの特殊性というのは、そういった言及やリンクを検索リファラーというネット上の技術で、集めることが出来ると云う点のみだろう。

何となく、理解できた気分でいる。

自分のコンテンツが、重要なものであるほど、多くの人がそれに関心をもち、論評するのは当然のことで、その内容について、評論され、リンクを受ける側は、論議を受けて立つことはあったとしても、リンクそのものを選別すべきではないし、また、出来るものでもない。最後に、私にとって、ここに考え及ぶヒントになった、Jintrick氏のパロディを引用しておく。

リンクフリー原理主義者
  • 1. リンクが無い(link-free)状態がWWWの原則だとする者達のこと。居ない(筈)。
  • 2. WWWに公開されている文書にリンクできるのは当然の権利であると主張する者達のこと。次の二に分類される:
    • 2-1. リンクが自由であることを特にリンクフリーと呼び、WWWにおける特殊な習慣だと考えている者達。
    • 2-2. リンクの自由というより、言及の自由であると認識している者達。言論の自由を原則としているのにリンクフリー原理主義者と呼ばれて寒い思いをしている

はじめに読んだとき、「言及の自由」、「言論の自由」と云う言葉が出てくる理由が理解できなかった。今はいくらか理解出来たつもり。進歩したように思う。