オリンピック中継を見ていて、道具の変化に驚いた。アルペン競技のスキーが随分短くなっていた。
学生の頃、競技スキー部に籍を置いていた。私が取り組んだのはノルディック種目だが、アルペンチームのスキーを身近に見ていた。
22年前、サラエボ大会で変化は突然訪れた。現在距離スキーはクラシカルとフリーに区別されているが、当時はそのような区別はなく、全ての選手がクラシカル走法であった。踏み固められたコースにカッターでシュプールが刻まれ、選手はシュプールを外れないように滑っていた。
シュプールを外して、スケーティングで走りきる選手が登場した。細かいカーブを曲がる技術として、スケーティングは誰もがマスターしていた。しかし、それをタイムを縮める方法として取り入れる人は居なかった。止めのワックスを使わず、最初から両足を開いて滑っていく。これが速かった。
技術の進歩は道具に変化を促した。距離用のスキーは短くなった。ストックは長くなった。しばらく両方の走法は共存したが、スケーティングはシュプールを踏みつぶしてしまうので、結局、全ての選手はスケーティングをせざるを得ず、暫くして、現在のように走法によって種目が分けられた。
走法の変化に、前後してカーボンファイバ素材がスキーとストックに取り入れられた。
私がオリンピック中継を断片的に見ていて、道具の進歩のことを考えました。前回のオリンピックで、ブレードの浮くスケート靴が話題になりました。素材は進歩している。フィールドの維持管理も良くなっている。しかし、道具そのものの進歩は遅々としています。今回のスピードスケートでは、競技中断中に靴を締め付けたために鬱血したことが、勝負のアヤになったと解説者が言っていた。スピードスケート用のシューズは見るからに古典的な風体をしている。もう少しなんとかできないものか。
アルペンスキーでは、スタート直後の加速、そして、ゴール間際や緩斜面の加速を考えると、ビンディングの踵は浮く構造にするべきではないのか。
ノルディックスプリント競技で優勝したカナダの女子選手が、ストックを使わないスケーティングをうまく使って、他の選手を一気に突き放した。
アルペン種目も、重力のコントロールばかりでなく、脚力を積極的に使う加速が僅差の勝負でものを言うのではないか。そんなことを考えながら、中継を見ていた。
些か忙しい日々。混沌とした、断片的な情報の多くは、その出所を明らかにしていない。
不正に対して感じる怒りの感情を、斜に構えてやり過ごす。別な見方が出来ないか考え、その不祥事が自分に与える影響を考える。他人事であれば、慌てる必要はない。誰かがコメントし、世論が出来上がる。その上で、どうにも違和感を覚えれば自分の感情を整理し、書き記せばよい。網の目のように、不確かな扇情的な情報が駆けめぐる。
そのうちの何割かは、戦略的に放出されている。世論は操作される。とりあえず、何も言わず、見定めることが必要なのではないか。そのようなことは聞いていない。承服できないと、意義を申し立てるためには、その時まで、じっと黙って行方を見定めることが必要なのだ。何も書かずにいる言い訳として。
閑話休題。
パチンコ屋は、お金を作り出すシステムである。パチンコで損をしない方法を知っている。パチンコをやらないことだ。株価が上がり儲かる振りをする会社の話を聞いて、私はパチンコ屋を思い出した。パチンコ屋ではお金をすってしまった人が目立たない。みんなが儲けているような錯覚を与える。不慣れな素人にお金をつぎ込ませて、パチプロに相当する人に儲けさせる。そういった収益の再配分をして、店は上前をはねる。所得を再配分する。内情を知っている人は供給される側、よく知らない素人は供給する側に廻る。
まぁ、そんなことを考えていた。みんなが儲かれば、それでよい。株価が上がり続ける限り、誰一人損をしない。しかし、そのようなことはあり得ないと云う、熱力学的な法則は、おそらく経済学でも成り立つ。胡散臭いと気がつかないのであれば、あなたは騙されている。
パチンコ屋には立地が重要だ。客の入りに比例した収入が得られる。初期投資は少なくない筈だから、収支を黒字に持って行くには、おそらく店構えと立地。どのくらい儲かるのか私は知らない。
「あのぅ、車が欲しいんだけど。セルシオ欲しいんだけど。」
と、市長は言って、贈賄側は唖然としたことだろう。アホちゃうか?ほんま、ええんか?
それにしても、「えげつな」
市長の給料では、セルシオは高嶺の花と云うことなのだろう。
あまりの分かり易さに、却って違和感を感じる。
市長に続き、社長を話題にする。
私も時々利用するビジネスホテルの社長である。ぶっちゃけた話しを、彼は最初の記者会見でしてくれた。ぶっちゃけた話し、障害者向けのいろいろな設備は商売にならないんです、だからついうっかり、やってしまいました。
社長は、ホテル業で儲けているけれども、社会に貢献している自負があったのだろう。私も時々世話になっている。便利だし、割と安いし。だから、こういうぶっちゃけた話しで、言い訳が通ると思ったんだろう。もちろん、謝って、直すつもりで。
しかし、それは差別だ。私は障害者ではないが、そのうちに障害者として認定され、介護を受ける可能性はかなり高いと思う。子供連れで出かけるときに、レストラン選びに苦労したことならある。子供は余り食べない割りに、食べ終わるのに時間が掛かる。散らかす。子供連れはお酒を飲まないし、店にとって迷惑この上ないらしい。
露骨に嫌な顔をされた。もうその店には二度と行かない。
私は十数年前、米国で二年間生活した。車社会。免許証と駐車場が生活するために必須の南カリフォルニア。
どこに行くにも車を使う。駐車場は完備しているが、込んでいて駐車場内を右往左往することがしばしばあった。店舗入り口前の一番上等な区画には車いすのマークがあり、どれほど混雑しているときでもそこに車を入れる健常者はいなかった。Bette MidlerとWoody Allen主演の映画「結婚記念日」(Scenes from a mall)の中でネタになっている。
そういった経験から、私は障害者用のマークは、公共設備には欠かせないものだと思っていた。
社長の家族や知り合いに、障害を持った人が居ないのだろう。無知は恐ろしい。ぶっちゃけた話しは無知を晒す。
http://www.oyakonews.com/diary/?date=20050705
安直なカナ書きが気になる。私が敢えてカタカナを使うのは、政治的宗教的な話題。極めてポピュラーな沸騰中の出来事で、無用に検索に掛かりたくないと思うとき。自虐的な気分になって、特殊な効果を狙うとき。
平仮名は文章を軟らかくする効果を狙って、誤解を与えない程度に使う。
朝日のコピーを見たときに、チカラというのが気になった。引っかかった。そういうカナ混ざり文を使うのは、中高生とかゆとり教育世代に限られると思っていた。あるいは、反省の上に立って、自虐的な気分になっていたのか。
オリンピックが開幕する。直前のトレーニングの模様をニュースでみた。フリースタイル、女子モーグルチームだ。
愛子がコースを試走していた。たまげた。あの技は何というのだ。彼女は神経を研ぎ澄まし、宙を飛ぶ。体をひねり、空を蹴り上げて、見事に着地する。
観衆は息を呑む。
彼女は勝つだろう。世界のレベルは知らないが、あの滑りを越えるライバルが居るのならぜひみてみたい。
大根が枯れただけの話。みそ汁の具にしたら良かったのに、皆で崇めて、あげくに培養すると。
死ぬに死ねない大根の悲劇。
消費者金融にせよ、酒類にせよ、宣伝の目的は単に印象づけること。好印象である必要はない。店頭で屋号やラベルをみたときに「テレビでCMをやっているやつだ」という差別化が図られればそれでよい。
ビールや発泡酒などのCMは、大体馬鹿げている。特に、福沢アナがはしゃぐCMは最低最悪だ。高田純次さんの出るやつもいただけない。
やり過ごすしかない。