いわゆる、メルマガと、メーリングリストの区別が付いていない。一体何なんだろうと思う。
通販などで、余り考えもなく、その時、少しは興味があって、最新情報をメールで送ってもらう欄にチェックを入れたりして、定期的なメールがいくつか届いている。花屋、デパート、航空会社、クワガタ屋、ソフトウエア、等々。ほとんどは読まずに捨てる。そいつらもメーリングリストに該当するのかどうか、分かっていない。少なくとも、私のメールアドレスが、リストに入っていることは間違いなく、今にして思えば、セキュリティの心配もしなくてはならないと思う。
スパムメールがしばしが届く。お仕事情報、とか、お金を工面してくれるところとか、アダルトサイトと思われるメールもたまに来る。
誰かが作ったメールアドレスのリストに私のアドレスも掲載されていて、名簿業者からそういった商売の人に渡っているのだろう。
今日届いたメールは、
Subject: MLご登録有り難うございました
メールマガジン新規登録のお知らせ
以下のメールマガジンに登録されました。
マガジン名:XXXXX 発行者:XXXXXX協会
と、書かれており、
登録を解除したい人は、下記アドレスから解除して下さい。
と、ウエブページのリンクが添えられていた。
名簿を持つ人が、勝手に登録する、と云うことなのだろう。厄介である。登録にパスワードが必要なら、自分の意志で解除出来ないかもしれない。
新たな名簿に名前が載ってしまったことになる。相変わらず、ウイルスもうようよとやってくる。今日は利用しているプロバイダのサポートのアドレスからウイルスが届いていた。その他に、企業名、大学などのアドレスを名乗るウイルスが多い。なんだか末期的である。根比べの様相。
とにかく、削除。
スプレー缶を使った落書きは、本来、いわゆる不良グループの縄張りを示すもので、いわば、野良犬の立ち小便のようなものである。そのあたりの治安の悪化を示す指標となりうるもので、地域住民には忌み嫌われる。
米国では不動産に掛かる固定資産税が教育予算に供されることから、不動産の価値を下げる治安の悪化に直結するグラフィティは、悪循環を誘うきわめて迷惑な行為と受け取られているようだ。落書きの多い地域を歩くときは用心した方が良い。
そういった背景を知ってか知らずか、日本の青少年が、監視の緩い田舎に出かけていって落書きの狼藉をおこない、アートだと言い訳をしたとか。
落書きも、場所をわきまえ、普遍的な芸術性を持っていれば、世のためになるかもしれない。
下らないスペースを覆い隠す、一種のボランティアと受け取ってもらうためには、豊かな感性に支えられた、美的感覚が必要だろう。くわえて、チャレンジ精神も、場合によって賞賛される。厳しい監視の目をくぐり抜け、あっと驚く様な場所、つまり、どうやってその場所にたどり着いたのか、誰もが不思議に思う様な場所に、鋭い感性を発露させれば、誰かが認めてくれていたかもしれない。
安易に走るのが宜しくない。戦う姿勢が必要だろう。
このところ、また、ウイルスメールが増えてきました。一日に10 ̄20通ほど。本日、自分差出人のウイルス付きメールが届きました。それに加えて、support@symantec.comから、Re: Submit a Virus Sampleと題するメールが舞い込み、めちゃくちゃ怪しい。後学のため、試しに開いてみました。
本文:
The sample file you sent contains a new virus version of buppa.k.
Please update your virus scanner with the attached dat file.
Best Regards, ??????(sender name 筆者伏せ字)
1. Attachment: No Virus found
2. Norton AntiVirus - www.symantec.de
とのことです。因みに、添付書類は。signature.zip とやら。
やれやれ、、、ご用心のほど。
このような作業をしていて、そこそこの閲覧者が集まってくれると嬉しく感じるのは、自己満足という私の気分の問題と思います。
人には色々な欲があって、生存欲以外にも、自己顕示欲とか、自分と似た様な発想をする人と交わりたいと云う欲やら、自分が認めたくない思想を否定したいと云う欲やら。何かに救われたいと思うことやら、世の中に影響を与えたいという気持ちやら。相対的な価値観に基準を見つけだして、いくらかでも絶対的な位相を表現したいという希望。
ウエブに限らず、自分の心の中を何らかの形に表現しようとする人には、そういった心理がいくらか働くのでしょう。
私の場合は何だろうか。吐き出すことの快感か、記憶が薄れることに対する恐怖感か、書き残し、記録したいという欲望か。誰かに読まれたいと思う欲望には、必ず、人の同意を得たいと云う心理が働いていると思う。
人は過ちを犯す。それが、無知によるものもあり、さもしい欲望によることもある。過ちという結果において、その動機は斟酌の対象になる。
ほーむぺーじなどやっていると、私の様なひねくれ者や、理屈っぽい者はどうにもならない。
背を向けると云うことが私にとってキーワードとなる。背を向けて、彼方を見る。何もないと云うことに気が付くこと。何もないことを表現することの尊さを思う。瞳の奥に見えるものは、眼球ではなく、眼球にうつる光だ。光はよく見るとそれに対面している世界を私に知らせてくれている。
小説家など、ものを書いて印税を取る人たちの作品の著作権がどのように処理されているのか知りませんが、例えば、某新聞社の著作権についての見解を見ると、<q>記者が書いた記事やカメラマンの写真の著作権は、新聞社が持っています</q>、とのこと。
一方、同じ新聞社のサイトでは、インターネット時代の著作権について、気をつけなければならないこととして、<q>著作物は、その人の大切な財産である</q>、としています。
ここで云う「個人」が誰を指すのか分かりませんが、とりあえず、新聞の発行に関しては、社員の著作物は著作権が新聞社に移されると云うことなのでしょう。
記者の記事が世に出るのは、新聞という仕組みを使うからで、新聞を使えるのは、記者が新聞社の社員として仕事をしているから。
ウエブサイトでは、この場合の新聞社の役割をするものが、インターネットです。従って、著作権はインターネットそのものに帰属する、なんて考え方は、成り立たないんですかねぇ。自由なリンクとか、引用とか、そうなってくれるととても有り難いと思う。商用サイトはインターネットの仕組みを無償で使わせてもらっているわけで、その点に於いて、著作権を楯にしてリンクや引用を制限するのはちょっとどうかと思って、色々考えていたわけです。
ご参考:道具としてのパソコン(インターネットにおける著作権)
http://www1.linkclub.or.jp/%7Enaminchi/oyanews/homep/HP2004/HP040330.html#HP040330_3
(前投稿#1055の補足として)
リンクや引用について、
Jintrick氏は、三つの原則を示している。彼のページを私が読んで、勝手に三つにまとめた。興味のある方は、元文献を読んでいただいた方がよいだろうと思う。
「転載は全てご自由に」
http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/about.html#reproduce
「あらゆる形のリンクを歓迎」
http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/about.html#about3
「真似されて困るようなものはWWW上に置いていません」
http://members.jcom.home.ne.jp/jintrick/Personal/about.html#copy
要するに、ウエブ上にアップロードした以上、どう使われようが、作者は関知しない、と云うことと解釈した。
私もそう思う。現実問題、一旦アップロードしてしまうと、作成者に出来ることと云えば、都合の悪いものを削除するのが関の山である。
著作権について敬意を払う意志のある人は、特別な断り書をするまでもなく、適切な引用をしてくれるはずだ。そういったことに意識の低い人に合わせて、自分のページに物騒な断り書きを入れるのは、私には気が引ける。盗作、盗用、フレーム内リンクなど、問題がありそうな二次利用をされたところで、気が付かなければ対処しようがない。ならば、端から関知しないと決めておいた方が現実的だ。
例えば、フレーム内リンクやインラインフレームの場合はどうだろう?あたかも、自分のコンテンツであるかのように見える点が問題であるらしい。著作権法に抵触すると云う判例も出ているとのこと。おやこニュースでも、キッズgooやGoogleのキャッシュを経由したアクセスがある。
フレーム内リンクや、インラインフレームによる「リンク」であったとしても、見る人にページの内容が誤解無く伝わると云う点は問題ない。1ページまるまる表示されるわけで、そのページにある著作権の表示や、他のページへのリンク、広告まで、そのまま表示されるわけであるから。「盗用」される側の問題点は、予め意図していない妙なフレームが添えられるという、自分のページの見栄に関わることだけではないか?即ち、リンクされる側にさほどの不利益があるとも思えず、閲覧者も初期には混乱するだろうが、すぐに事情を理解するだろう。一方、このような「盗用」をする側にもメリットがあるとは考えにいことから、これはただ単に、図らずも「盗用」してしまった作成者の無知が問題で、見つけたら嫌な気分になるだろうが、それはそういった行為の無意味さに腹が立つからだと思う。
完全なコピーや、フレーム内リンクであれば、原作者の意図がねじ曲げられる可能性は少ない。また、少し知識のある閲覧者なら、外側のフレームを外すことも出来るだろう。盗用される側に対する影響としては、むしろ、不完全で部分的な引用の方が遙かに深刻な問題である。
部分的なコピーや、肝心なところを意図的に隠すことで、意味が通じなかったり、本来の主張と逆の意味に取られたるような場面で、二次利用される場合である。意図的であれば、出典などが示されるはずもない。ことに、画像が流用される場合、テキストと異なり、検索も困難であることから、二次利用されていることが判明しにくい。
違法なリンクや引用、二次利用を制限しようと思ったら、こういった様々なケースを想定し、注意書きを付けなくてはならないだろう。どうせ守られない注意書きなら、書くだけ無駄である。何処かに、全てのコンテンツの著作権は放棄していません。とか、その程度のことをひとこと書くだけで十分ではないかと思う。
私自身が何かのリソースに興味を持ってその引用やリンクをする場合、まず、リソースの作者の自己紹介を探し、ページの作製の意図を見る。訳の分からないリソースは反応するだけ無駄である。
最終的に、反応するか否かを決めるために、リンクに関するポリシーに注目する。それには、リンクや引用に関する説明が明快であることが必要である。たとえば、「著作権法に認められた適切な「引用」については問題ありません」と、書いてあるとする。私は、著作権を尊重しなくてはならないと云うことは理解しているつもりだが、自分がやろうとしていることが、「著作権法上認められた適切な引用」かどうか分からない。著作権法に基づく過去の判例など、いちいち知らないし、自分のやろうとしている行為が著作権法上適切であると言い切る自信がないから、この表現は、私にとって「リンクはトップページに」、と同じような効果を持つ。たぶん、著作権など気にもとめない人には、何の意味もない文言であると思う。著作権を尊重することに異存はない。ただ、合法的な引用をおねがいします、という注意書きに激しい圧迫感を感じる。その文言が気になり始めたらリンクを諦めるだろう。あほくさいのでリンクしない。
オオカミが、赤ずきんの個人情報を盗み、悲劇は起こりました。
オオカミは、盗んだ個人情報を元に、祖母になりすまし、赤ずきんを騙して食べてしまったわけです。
個人情報の漏洩が問題になるのは、企業のレベルでセキュリティ管理のいい加減さがばれることで、個人のレベルでは、大変ありふれたことです。それが犯罪などに利用され、個人に不利益がもたらされるのは、確率の問題です。
流出した名簿に自分の名前があったところで、それは、違法に名簿を手に入れたものにとって、名簿のリストに含まれるひとつのレコード以上の意味はないのです。レコードに、何か付加的な情報が加わったときに、個人情報の漏洩がプライバシーの侵害という意味を帯びます。赤ずきんの場合、ある住所に、弱者である祖母がひとりで暮らしている、という、付加的な情報が加わったことが、祖母にとって悲劇を生みました。更に、数時間後、おいしそうな少女がその家をひとりで訪れること。そしてその訪問の目的が、犯罪者たるオオカミにしれてしまったことが問題なのです。
日常生活で、様々なフォームに、氏名、住所を書くことを迫られます。個人レベルでの対抗策は、なぜ、そこに自分の個人情報を書き込まねばならないのかを意識することです。大抵は、何らかのサービスを申し込む場合に、個人情報の提供と引き替え、と云うことになる訳です。情報の提出先が信用できるかどうかに加え、そのサービスと、個人情報の質に正当な繋がりがあるかどうかは常に自問するべきでしょう。
一方、情報を集める側も、情報は漏れることがあると云う前提で、必要な情報のみを最低限度で集めることが、自己防衛の手段となることを考慮するべきでしょう。
何度か話題に上ったと思いますが、私は携帯電話を持っていません。携帯電話に煩わされることがない反面、その御利益に預かることが出来ません。いまや、大多数を占める携帯電話ユーザーには、携帯電話が無い生活を想像出来ないのではないかと思います。また、社会生活を送る様々な機会に携帯電話が必需品として求められる機会が増えてきています。
いまや、携帯電話を持つのが当たり前です。色々な書類に書き込む個人情報欄にも、携帯電話番号を書き込む欄があります。これだけ普及し、誰もが持つ時代にもかかわらず、携帯電話を使う環境は、それほど改善されていないようです。先日、何処かの電話会社が、携帯電話の定額制を打ち出し、他社も追随する見込みと、ニュースで聞きました。実際の料金がどれほどになるか分かりませんが、環境改善の第一歩が定額化と値下げであることは疑う余地がありません。
一方、携帯電話利用のマナーに一定の基準が示されていないのも問題点です。ご遠慮下さい、マナーモードで、電源をお切り下さい、など、何段階かのグレードがあるようですが、呼びかけをまともに守っている人はそれほど居ません。そういった呼びかけに説得力がないのです。心臓ペースメーカーなどの、医療機器に悪影響を与える、とのことですが、影響を与えない機器やシステムの開発を早急におこなうべきです。放置されている理由が分かりません。また、周りの人のご迷惑とならないように、と云いますが、周りの人の迷惑と云うより、携帯電話を使う側の常識に関わる部分です。公衆の面前で大声で会話することに羞恥心を感じるかどうかは、周りではなく、使う本人の問題です。公衆の面前で化粧をすることとの是非と問題の質は同等と感じます。
使いたくない人の権利を守ることも考慮するべきです。現実に、様々な公共サービスが携帯電話の所有を前提として組み立てられようとしています。携帯電話を持たなくても、同等なサービスを提供する代替手段を用意する必要があります。現実に、街角から公衆電話が姿を消し、携帯電話を持たない身としては、不自由に感じます。将来的に、携帯電話のメモリ部分を独立させ、固定電話や、公衆電話にそれらのインタフェイスを装備することで、サービスは利用するが、電話は持たないという選択肢が用意されることを期待します。
サービスと通話機能を分離することで、昨今の携帯電話通話に関わる問題は、ある程度解決しうるのではないかと思います。便利であるが、ところ構わずに掛かってくる電話に追い回されることを快く思わない人は少なくないと思うからです。
西部警察のロケで事故が起きて、石原プロの、渡さんが、記者会見で不祥事を詫びた。
渡さんほどの人だから、立派な会見だったのだが、なんだか演技のように見えなくもなく。衷心よりの言葉が、聴く側の固定的な観念のためにねじ曲げられる。渡哲也は俳優なのだという、観念。俳優というのは、心からの言葉を吐くときに、「これは、演技ではなく、ファンやマスコミ向けのリップサービスでもなく、私の心情を発露させたものなのです。」と、断らないと、余り信用して貰えない場合があるのだと、なんだか気の毒な気がしたのです。
その、おおよそ逆のことが、江角さんの身の上に起きたようです。もちろん、CMに出演している彼女は、女優です。リアルな線でいきましょう、と云ったのは、彼女ではなく、プロデューサーのはずです。期待に応えて、彼女は迫真の演技をして、多くの人の印象に残ったのです。しかし、演技ですから。それは、ドラマの中で、親友を裏切ったり、姑にいびられたりしたところで、彼女は多分、人を裏切るようなことはしないだろうし、姑にいびられても耐え抜く人とは限らないのと同じことです。
不祥事は、フィルムを作った制作側の不手際によって起こりました。年金の未納が罪になるかどうか知りませんが、おおよそ800人居る国会議員の家族の中にも30人くらい払ってない人がいたとしても、私は驚きません。もし、議員さんたちが、全員きっちりと払っているのなら、そっちの方が驚きです。
いかりや長介さんの訃報。驚いた。
私は、自分がドリフターズ世代だと思っていた。私よりかなり若い人たちも、ドリフターズをよく知っている。しかし、私は志村の加わったドリフターズをほとんど知らず、彼らに荒井注は伝説上のメンバーである。
いかりやさんが死んだと聞いて、知り合いのおじさんの訃報に接したような気分だった。ちょっと前に、ビストロスマップに出演していたのを偶然見た。復帰すると思っていた。
彼が年老いるより、速いスピードで、私は歳を取ったらしく、かつて遠い彼方に居たはずの彼が、いつの間にか、格好良い先輩として私の目に映っていた。不思議なもので、よくよく見れば、彼も肉体的には衰えているのだが、私はなぜか、自分だけが歳を取ったような感覚を覚えた。
彼は、コントではツッコミ役である。ボケはスターになりうるが、ツッコミは目立たない、難しい役回りだ。4人プラスαのボケにツッコミ続ける。子どもの頃はそういうことに気付かない。ドリフターズはいかりやでもって居たのだと云うことをこの頃ようやく理解した。
公衆の面前で、悪態を突いたり、下品に振る舞うことの難しさを、子どもたちは気付いていない。親たちも知らぬ振りをしていたのだ。
こうして、公衆に自分の思うところを表明する場所を与えられ、今まで千を超える文章を並べてきて思う。私は、上品に振る舞おうとしている。下劣さを他人に見せることはなんと勇気のいることか。その緊張感が、笑いを呼ぶ。
いかりや氏は、志の高いチャレンジャーなのだ。これからの彼を見たかった。まだ見足りない。
セキュリティに関して、結局は自分の身は自分で守る、と云うことに尽きると思うのだが、一方で、プロにはプロの信頼感というものを期待したいところ。
二つほど前に書いた、銀行の話。
銀行が自分のセキュリティを否定しているのか?私のところはどうにも情報が漏れているようなので、時々、暗証番号を変更した方が安全ですよ、と云う風に取れなくもない。
そのような警告を見たとき、私は何かの根拠があって、警告しているのかと思う。定期的に暗証番号を変えた方が良い根拠とは、銀行内部か、顧客の内なる部分のセキュリティ上の問題と云うことになるのではないか、と、私の貧しい理解力を総合するとそういうことになる。
そりゃ、変えた方が安全、というのは、やらないよりやった方が良い、と云うようなもので、わざわざ、銀行さんに言われるまでもない。彼らの立場上、ただの親切心から発せられるべきセリフではないことは明白、と、私は思う。
だとしたら、これは何かの責任逃れのセリフかもしれない。あるいは、何も考えずに、銀行の信用とか、社会的責任とか、そういうことを、全然気にしない、下っ端の阿呆な行員がアイディアを出し、内部のチェックが働かずに表に出た、ただのお節介的親切心の発露かもしれない。
三井住友だけなのか、でも、顧客みんなが毎月暗証番号を変えて、その50人にひとりが、変えた暗証番号を忘れる、というのは、あり得る数字と思うが、そんなことになったときに、銀行は対応できるのかしら?
欠陥商品を売って、死傷者が出たり、経済的に莫大な損失をもたらしたりすることがあるので、リコールという仕組みがある、と云うことだと思う。
ソフトウエアも商品で、インストールしてしまうと余り嵩張らないし、しかし、値段は比較的高価だし、きちんと動いて当たり前と思っていたが、欠陥があると、それはバグとか云って、許して貰えるのが慣例のようだ。
買ったは良いが、バグのために時間と労力を無駄にしたり、結局使えなかったりしても、バグなら仕方がないと、諦めるのも程度問題だ。
まともに動かないソフトのアップデートに数万円払ったら、やはり、嫌な気分になる。例えば、セキュリティソフトなどは、最近のパソコンに必須のものだけれど、OSのアップグレードについて行けず、買った時点で既にまともに動かない。一応、アップグレードを表明しているが、いつまでに、と云うようなアナウンスはない。一年の期限付きなのに、その大半をまともに動かない状態で使わなくてはならない。
バグが赦されるのは、それに対するアップデータがたいていの場合無料で提供される、と云う慣例があるからだ。そして、メーカー側は、バグを直すために、アップデータ出すために努力している、と云う、暗黙の了解があったからだろう。
シマンテック社のノートンブランドの製品群は、パソコンを安心して使うために必須のソフトウエアであるが、なんだかメーカー側にやる気がないらしい。最新のOSで動かない最新バージョンを買ってしまい、そのアップデータが出る前に、OSのアップデータが出る、と云う状態。まともに動かないソフトにお金を払ったと思うと、なんだか腹立たしい。決して安くないし、ウイルス定義ファイルなどの更新期限が一年、それを過ぎるとまたお金を払う必要がある。まともに動かない期間も、多分その一年にカウントされる。
多分、やる気がないらしい。能力がないとは思いたくない。
バグと云って言い逃れが出来るのも、程度の問題なのだ。
先ほど、ATMで預金を引き出そうとしていた。しばらくお待ち下さい、のタイミングで、液晶画面を見たら、
「暗証番号は定期的に変更することをおすすめします」
のような表示が出て、理解できなかった。
定期的、とは、2ヶ月に一度とか、とにかく定期的なのだろう。暗証番号を変えることを奨めてくれる理由は何なのだろう?セキュリティ上の問題を解決するため、というのは想像がつく。定期的に変えないでいるとどうなるのだろうか?
不思議に思いつつ、三井住友銀行のウエブページを見た。結局、セキュリティ上の問題提起をしているページは見つけられず。暗証番号変更の謎も解決しなかった。カードを盗まれても、暗証番号が分からなければ、逆に、暗証番号を知られてもカードを盗まれなければ大丈夫、ではなかったのか?
それより、どうやったら暗証番号を変えられるのか、ウエブページに説明書きがなかったような、、、氏名、住所、支店の変更についての説明は見つけたんだけれど。
ちょっと無責任な感じがしました。
前々から、気にはなっていたんだが、長井秀和って云うのは結構面白いと思うんだが、彼のやっている芸は結構難しいんじゃねぇの?覚えてないと出来ないだろ?陣内ナンタラみたいに、予めテープか何かに録音しておいて、適当に振りを付けるより、多分千倍難しそうだ。随分練習して居るんだろう。噛んだらやばそうだという、緊張感。本人も感じて居るみたいだし、聞いている側も感じている。そのエッジを滑っていく緊張感が面白いって訳だ。本当に滑っちゃったら、目も当てらんねぇ。今日見ていて、土壇場で立て続けに噛まれて、ホントに思ったよ。こいつはやっぱり、難しいことやってたんだって。筑紫哲也の多事争論と同じ緊張感だって訳。
間違いない。
携帯電話にも、ウイルスメールが届くことがあるらしい。考えてみれば当然のことだが、余りそういった苦情を聞いたことがなかった。
感染パソコンの、メールソフトのアドレス帳に、携帯電話のアドレスがあれば、当然届けられるわけだ。私の妻のアドレス帳には、むしろ携帯電話アドレスの方が多いかもしれない。
パソコンのメールは、システムを立ち上げ、受信をクリックするときに受けるが、携帯電話の場合は、届いたときにお知らせが来るのではないか?持っていないので良くわからない。
>迷惑メールが、不幸なリストに自分のアドレスが載ってしまったために届くのに対し、ウイルスメールの場合は、感染者のパソコンに、アドレスが保存されているから届く。
ウイルスメールが迷惑だからといって、アドレスを変えたところで、感染者とメールのやりとりをすると、また届き始める。キリがない。感染している人が、自覚してウイルス駆除をすれば、解決する。
だから、ウイルスメールを避けるために、アドレスを変えることは全く意味がない。メールをやりとりしている複数のお友達に、ウイルス感染の可能性について尋ねるのは、、、ちょっと問題があるのではないかと思う。
お互いに、ウイルス感染についてよく知らない同士であれば、揉めるだけで、解決しないだろうから、口に出さない方がマシである。友人を失う可能性がある。
>携帯電話のOSに感染するウイルスが登場しないのは、なんだか奇妙に感じる。
私は、自分のサイトを眺めるのが好きだ。
読み直して面白い。良く書けていると思うのもあるし、どうにも詰まらない、と云うのもあるが、全体としてみると、かなりいい線いっていると思う。
過去ログを見るのは更に興味深い。もちろん、デザインとか、まとめ方など、不満はあるが。
過去ログを1044番目までまとめた。ただ並べて見られるようにしただけ。インデックスの方に入れたいのだが、なかなか手間暇が掛かるのだ。
興味のある方は、右側のメニューからどうぞ。
電車の中で化粧するくらい、別に構わないのではないか。
空いている車内なら、目の前で化粧されても、私は一向に構わない。あぁ、この人は寝坊して、歯も磨かず、部屋の片付けもせず、布団もたたまずに、大あわてで家を出て、駅までの道を必死になって走り抜けて、ようやく一段落して化粧を始めたんだろうなぁ、と思うだけだ。
取り立てて、目立つところがない、平板な容貌が、見る間に変貌を遂げ、野暮ったい風体から最先端流行のお面ができあがる様。揺れる電車内で、ほぼ左右対称に眉毛を書き込んだり、どこから沸いてきたかと思うような見事にマスカラてんこ盛りにしたり、一種の大道芸のようで、感嘆する。
声高に叫ぶほどに迷惑とは思わない。みっともないなぁと感じる程度のことで、じろじろと見られて恥ずかしいと思わない人に、止めなさいと注意するほど私は閑人でもお節介でもない。女房や、娘たちには止めなさいと云うだろう。自分が女なら、やらないと思う。都合でやらねばならないときは、断腸の思いでやるかもしれないが。
車内で着替えをしようと、声高に電話しようと、別に構わない。もっとも、電話の方は、電磁波が心臓ペースメーカーに影響することがあるというので、止めた方がいいと思うが、そのようなことを気にしない人が多い現状では、携帯電話専用車両、もしくは携帯電話キンシ車両を設けるとか。むしろ、危ないものを売り続ける携帯電話の製造者の怠慢を感じる。医療用機器に影響しない携帯電話を開発し、一般化するべきだと思う。病院内で医療関係者がそういった規格の携帯電話を使っているのは知っている。
別に、電車の中でキスをしようが、化粧をしようが、鼻くそをほじくろうが、臭くないなら屁をここうが、私は一向に構わない。いちいちそんなことを気にしていくには、人生は忙しく、また短すぎる。
企業は、お金を儲けるが、それは社会に貢献した結果、ご褒美として与えられるものだ。企業は儲けは、市民の感謝の徴である。
自動車産業は大いに社会の役に立っている。車やトラックやバスは、日常生活と切り離すことは出来ない。その便利さを享受するために人はお金を払う。会社は儲かる。
反面、車は事故や騒音、排気ガス、振動など、社会の迷惑になることがある。社会的使命として、自動車会社はそういった負の一面を減らすように努力する必要がある。それらは一般に輸送効率と相反することで、どちらか一方を実現するならたいした努力はいらない。両立することの難しさを知る人は、努力して成果を上げた企業を高く評価し、より多くのお金を払う。企業は儲かる。
企業は不安に思っている。儲からなかったらどうしよう?市民に迷惑を掛けたらどうしよう?
とりあえず、年に一度の株主総会、つまり内向きのメンツを保つには、もうけることが優先するらしく、そういった安直な解決は、結局会社の評判を落とす。
三菱ふそうのトラックからタイヤが外れて、死傷者が出たときに、彼らは事件をどう捕らえたか。車は比較的大きなエネルギーをマネージメントする機械であるので、人のコントロールを外れると危険である。人は間違えることがあり、車の設計においてアクティブセーフティが重視されるのはその点なのだ。
彼らは事故を整備の不良が原因とした。
車を設計するときに、立派なマニュアルを用意するより、間違えにくい構造とすることがアクティブセーフティの神髄だ。人が間違える前提で、安全のマージンを確保することはむしろ当然のことなのだ。彼らの主張はそれと真っ向から対立するものであった。
彼らがどう主張しようと、タイヤは外れる。運が良ければ、転がるだけで済むだろう。
マニュアルの記載は免責事項にはならない。結果的に対策は遅れ、市民の安全を脅かす。彼らの行為が犯罪であることは明白である。
長女と連れだって、大阪城ホールへ。TOKIOのコンサートを聴いてきた。
スタンド席で開演を待っていた。徐々に席が埋まりはじめ、私達の隣に微妙な年頃の女性グループが座った。場内では、カメラ、ビデオ、録音機器の使用はダメ、携帯電話は電源を切って、公式の売店以外は違法販売なので、、、と、観客に注意を呼びかけるアナウンスが繰り返し流れていた。
開演直前に、メンバーの声で、アナウンスが聞こえてきた、「携帯電話の電源は切って下さいね。」
隣に座った女性が、バッグからケータイを取り出し、液晶画面を確認、ボタンを操作した。マナーモードに設定したのだ。
私は携帯電話を持っていないのだが、マナーモードとスイッチを切ることが違うことくらいは想像が付いた。呼び出し音を鳴らさずに、バイブレーションで知らせてくれるという仕組みだと思う。
携帯電話を持っている姪が云うところに依ると、電源を切ると着信記録が残らないとのこと。電話に出るつもりが無くても、マナーモードにしておくことは意味があるらしい。
年に一度のコンサート、たかが二時間である。色々と事情はあるのだろうが、ケータイの呪縛から離れたらいいのに、と思う。
幼稚園の知り合いの父兄が、幼稚園児の娘にケータイを持たせることを真剣に考えていた。「何かあったときに困るでしょう?」というのが、彼女の言い分である。
携帯電話が便利なシチュエーションがあるのは分かっている。ケータイがある前提で生活を組み立てると、ケータイを持たない人とつき合うのに不自由を感じるのだろう。たとえ、それが幼稚園に通う自分の娘であっても例外でない。それを解決する手段は、相手にケータイを持たせること、というわけだ。
我が家はケータイを持っていない前提で生活している。真顔で「信じられない」という人もいる。
愛するTOKIOのメンバーと共有することを許された僅か二時間さえ、ケータイの呪縛から逃れられない滑稽さに気が付くことが出来るのは、ケータイを持たないメリットの一つだと思う。
裏金作り、っていうのも妙な言葉だ。詐欺や、窃盗、公務員法違反、色々な罪状が付きそうだが、組織的にやると、裏金作り、というみたいですね。
報道する人は、そういう訳の分からない言葉を受け売りするばかりでなく、きちんと客観的な事実を伝えて欲しいなと思う。
北海道警察、旭川署だけでない。日本中の官公庁でやっていそうだと思う。
違うかな?