選挙なんだそうです。何故かというと、衆議院を解散したからです。
しかし、今、何が問題になっているのか、なんについて国民の信を問おうとしているのか、分かりかねます。
なんだか、総理大臣の信任投票みたいな気分です。あるいは、合併民主党のお披露目選挙。わざわざ選挙する必要が無い様な気がします。
民意を反映するという意味で、選挙はとりあえず歓迎なのですが、なんのためか良くわからない選挙は困りものです。何かうやむやのうちに、この先数年の私たちの生活が決まるのは、不本意です。
あと、国民の代表を目指す人たちが、お互いに相手を罵倒しあう様子を見せられるのは、余り気分がよろしくありません。その競争相手が、実は、かなり多くの国民の意見を代表しているということに敬意を払うべきだと思います。頭から見下したような口ぶりで、自分の主張をそこのけに、相手の意見をけなす人はよろしくありません。まっとうな論議を期待します。
礼儀正しく、誠実な人を選びたいと思う。立派な主張も、横柄な態度の前に霞みます。ワイドショー政治とか云いますが、政治家本人までそのつもりになってもらっては困ります。
時代。そういう括り方。
様々なものが、使い捨てできるようになり、便利になった。
金型にプラスチックスを流し込み、いくらでも安価にコピーを作ることができるようになり、大量に製造し、大量に消費し、廃棄する。使い捨ての利点は、クオリティを保つことがたやすいこと。事後処理が楽なこと。再利用の手間が省けること。問題点はコストと廃棄により生ずる廃棄物、つまり、ゴミを処理する必要があること。
今やあらゆるものが使い捨てされる。使い捨ての注射器が普及し、かつてどこの病院の処置室にもあった煮沸消毒装置は姿を消した。医療行為は簡便化され、より清潔になった。
コンビニの陳列棚に並ぶレトルトや、使い捨て食器に収められたファーストフードに群がる少年たちは、不夜城の明かりを頼りに車座になり、時代の恩恵を頬張る。彼らは、廃棄の意味を心得ない。使い捨てに慣れきった彼らは、廃棄物という認識に乏しい。食い終わり、カラになった使い捨て容器は既にゴミになっているということに気がつくのに時間が掛かる。加えて、ゴミはくずかごへ入れる方が良いという発想も出てこない。
尻のポケットの携帯が鳴り、実に簡単に彼らのラインは繋がる。簡単すぎる。友人と知人の区別は曖昧となり、しかも、携帯の罠から逃れるのは簡単ではない。車座は広がり、行き場のないゴミがその中に堆く積まれる。
彼らの中、一人くらい、名字や戸籍までも使い捨てにしたとしても驚いてはいけない。不要になった戸籍上の妻を、殺し、その遺骸の適切に処分法を心得ていなかったとしても、それは当然である。とりあえず、深夜スーパーに向かったのは、そこが彼らの行き着く場所であるから。
この事件を理解しようとしてはいけない。正確な情報を手に入れて、事実として受け止めるだけでよい。
漢字というものは、(私が云うのも何だが、)良くできている。おおむね、日本語にマッチしている。海外の留学生など、日本語を勉強しようとする人で、漢字にどう取り組むかがその後の学習の進歩に大きく影響するように思う。漢字の理解は日本語の習得に大変重要であると思う。
私達はあまり意識せずに使う、漢字であるけれども、私は使うたびに違和感を感じるものもある。
空、
空っぽ、青空、この二つの言葉の意味は全く異なっている。意味を読み違えることはあまりないが、空という文字に二重の役割を負わせる必然性をあまり感じない。私にとって空は青空の空で、駐車場(空あります)、という看板を見ると、なんだかすてきな駐車場だと思ったり。
もう一つは方である。
親切な方が助けてくれました。方、は丁寧語として使う場合と、二つを比較してその一方という意味で使う場合、二通り。前後関係を理解していれば間違うことはないと思うが、突然出てくると紛らわしい。敬語として使われるだけに、きちんと明示できる方が望ましいような気がする。
敬語として方を使うたびに、なんだか引っかかる。
今日も無事に家に帰り着きました。
これから免許を取りたいと思っている人や、先週バイクを発注して、今、納車待ちのひと、一昨日からバイクに乗り始め、今日はとりあえず無事に家に帰り着いた人に、少しは役に立つかも。
バイクは実は、交通の一部です。税金を払ったり、自賠責保険料を納めたり、高速道路では軽自動車と同じ額の通行料金を払っています。運転するにはもちろん、免許が必要で、加えて、ヘルメットを被ったり、色々と面倒なこともあって、ライダーはそれなりの気合いを入れてバイクにまたがっています。
少し町中をバイクで走れば、これはすぐに気がつくことかもしれませんが、多くの人々、歩行者、車の運転者が、バイクに対して正しい認識を持っていないことを、安全運転のために十分に認識するべきです。
歩行者や自転車の人は、だいたいバイクを無視して行動します。自転車は一時停止の交差点で止まりません。車が来ていたら、スピードを緩めたり、止まろうとしたりするかもしれません。そのつもりでバイクを運転してはいけません。彼らは全くバイクを恐れません。目には見えていると思いますが、多くの人々は、バイクを全く無いものと見なしたかのような行動を取ります。つまり、突然、バイクの進路を遮ろうとしたりします。
車も同様です。意図的に幅寄せして、バイクをからかう運転手もいるようですが、これは少数派です。多くの自動車運転手にとって、バイクは石ころや、道路に転がっているゴミ程度の認識です。ライダーは、自分が交通の一部としてそれなりの空間を占める権利があるような気分でいるのですが、彼らには、バイクが占めている空間が非常に無駄なものに思えるらしく、遠慮会釈無く、車はその空間に入り込もうとします。たとえば、信号のない丁字路にさしかかり、左に曲がろうとしているとします。歩行者がわたっているので、私は減速し、一時停止しました。私の後ろの車は、突然右車線に入り、バイクを追い越して交差点を左折しようとするわけです。私は無為に止まっているわけでなく、歩行者が交差点を渡ったら、発進して丁字路を左に曲がろうとするわけで、私を右から追い抜こうとする運転者の行為はとても危険です。車の運転手にとって、バイクはゴミと一緒なのです。ライダーは生ゴミに集るハエ程度のものです。彼は交差点に落ちているゴミを避けようとしただけです。
生き残るために、ライダーが取るべき行動は、車や歩行者を常に疑い、飛び出してきたり、体当たりしてきたときに、どうやって避けたらいいかを常に念頭に置き、運転することです。
他にアドバイスすることと云えば、ケータイメールを使いながら運転している車からなるべく離れること。(できれば抜いてしまう)。一番危ないのは、バイクそのもの。つまり車の陰から突然飛び出してくるバイクが一番危ない、ということは自覚しておくべきでしょう。
自分が、なんだか粘着気質で、くどい様な気分。
話題を変えましょう。ちょっと自慢話をさせて下さい。
おやこニュースを立ち上げて、3年過ぎました。ようやく訪問者も増えてきて、色々と軌道に乗ってきたような気がします。
ゴタクもいよいよ900投稿を超えました。いつも見て下さる皆さんのお陰です。これホント。
アクセスログを見ると、少しずつですが、リファラーのない、つまり多分、ブックマークの方が増えてきたような気がします。
リファラーですが、検索ページから、が圧倒的です。中には、きわめて抽象的、何を調べたかったのか、と思うような検索語で、、、
「一昨日」
何と、30万5千ページの2番目に出ます。(ヤフーのページ検索です、以下同様)
「見下ろす」
57100件中19番目
「青々とした」
62万1千件中2番目。
他に、おやこ(ひらかなでおやこ)
12300件中22番目
育児
1940000件中76番目。こういうのは、嬉しいことです。
ところで、
ウエブサイトを作る
29件中のトップ
単に、「ウエブサイト」では、
11200件中、13番目。何かシャレにならないです。
今は運動会を含む検索語で来て下さる方が多いです。運動会のお弁当とか。あんまり大したことは描いていないので決まり悪いです。
元になる記事が既に削除されている。今更とやかく言うのも馬鹿馬鹿しい気がする。誤解を生ずるような表現があったと思うので、追加する。
学術的な出版の場合、執筆者が守るべき一般的なルールと私が思うのは、出版社が定めた投稿規定を遵守する。その一点のみ。
良くある投稿規定は、一般的なワープロソフト(マイクロソフトワードが除外されるケースは無いと思う)を使うこと。文字数、(英文の場合は単語数)に、制限が加えられる場合がある。ファイルはワープロ文書形式に加え、テキスト形式で保存したもの、二通りを用意し、プリントアウトしたイメージを添える。図はJPEG、TIFFなど、互換性の高ファイル形式が指定され、作成したソフト名とバージョンを明記。また、オンライン投稿の場合、PDF形式が指定される場合もある。OSはマックを拒否するケースは無いと思う。
もちろん、内容の正確さ、オリジナリティに関しては云うまでもないことである。
等々と、書いたところで、元記事は削除されているし。
元の文書を読みたい方は、朝日新聞社のサイト、AICで火曜日鐸木能光の「デジタルストレス王」なぜLinuxを捨てるのか、東大、をご参照のこと。
私は、この文章を書くのにずいぶん時間をかけた。マックOSXはUNIXベースが売りということは知っていたので、不思議な気持ちだったのだが、単純に筆者の無知、事実誤認に基づく記事だったらしい。
元の朝日サイトのコラムは、既に削除されている。勝手なものである。なんの断りもなく、削除。認識不足、事実誤認があり、筆者が訂正とお詫びを申し出ている。
今週のAICには大変なお叱りメールが殺到しております。単純に認識不足、誤認があり、来週号で訂正とお詫びをしますが、もし読者のかたでここまでたどりついたかたがいらっしゃいましたら、取り急ぎご報告を。
これは、筆者の個人サイトにある掲示板の、おそらく筆者によると思われる書き込み。日本語が変である。
お詫びは朝日サイトにまず載せるべきだと思う。共有の姿勢はネットにおいて重要であると私は認識している。
因みに筆者(鐸木能光 氏)の個人サイトは、朝日のAICからリンクされている。
下手なことを言うと、またまたMacユーザーからのお叱りのメールがたくさん来そうだが、本当にそれでいいのだろうか。
またまた、というところを見ると、この方は、以前からマックユーザーと色々揉めているらしい。唐突に、ウインドウズに対するマックの優位性を云々する辺りは、マックユーザーに気を遣って下さっているのかもしれないが、論点とは何の関係もなさそうである。
何が言いたいのか分かりにくい。
大学のシステムが、たとえば、ウインドウズやマックなどの商用OSで統一されると、昨今のウインドウズをターゲットとしたウイルス騒動でも明らかなように、情報管理の首根っこを一企業に押さえられることになり拙い、というわけではないらしい。選択肢に、端からUNIX系OSを除外したことに対する苦情、もしかすると、筆者はUNIX系OSに思い入れをもっているのかもしれないが、本人がOSの性能比較に端からUNIX系OSを除外している辺り、主張に一貫性を欠く。UNIX系OSの採用が、教育現場に不可欠な、「共有の姿勢」を具現化するものだという意見については、UNIXの現状を知らない私は、何ともコメントし難いが、UNIXの開発に、日本を代表する大学として東大が役割を果たすべきだ、という主張なのかもしれない。共有の姿勢を学ばせた結果、「・・・と言いながら、新しいGUI環境を開発する東大生が出てくるかもしれない」、つまり、東京大学の学生に Unixをいじらせれば、一人くらい何かすごいことを思いつくかもしれない、という、筆者の主張するUNIX採用のメリットは、余りに安直と感じる。情報工学を専門外とする学生にとって、大学の情報端末の役割は、UNIXの勉強や、プログラミング能力、ネットワークの構築・管理に関する技術を学ぶことではない。彼らは、それ以外の分野で大きな業績を残すだろう。それを筆者は「学者馬鹿」と、憂うのだろうか。
学者は、教育、研究に加え、その業績を文書にするのが仕事である。学者の中に、パソコンを十分に使えない人がいたとしても、別に不思議なことではない。出版社に適切なかたちで原稿を渡せない位で、「馬鹿」呼ばわりされてはたまらない。そうした人たちの中にマックユーザーが結構いるのは当たり前で、学者やアーティストのユーザーが多いと、筆者も書いている。出版社は、学者を含めた、色々な人の著作を出版するのが仕事な訳で、原稿の互換性維持は出版社の仕事である。原稿の書式を執筆者が理解できる情報として伝えるのは、編集者が責任を持つべき部分と私は思う。筆者の紹介文を読む限り、彼は出版社に対してむしろ顧客の立場にいるから、この記述に関しては伝聞に依るものだろう。執筆者と出版社の間には、信頼関係があると思っていた。陰で馬鹿呼ばわりしている編集者がいるとは信じがたい。出版社の常識を知らないからといって、馬鹿呼ばわりするのは筋が通らない。それが、教育現場に不可欠な「共有の姿勢」と主張するのは、論議のすり替えと感じる。
また、マックユーザーは文書の互換性の問題で、少なくとも、ウインドウズユーザーより遙かに苦心している。ファイルのやりとりを経験、云々は全く的はずれで、それをもって、「コンピュータとは何かという根本理念を学び損なったまま学生生活を送るのはもったいない。 」と断定する根拠が不明である。
なんか、何いってんだか良くわからない文になってしまった。
それにしても、マックのワープロデータを処理できない出版社があるんだろうか?テキストデータが欲しいなら、ファイルメニューから別名で保存・・・とか、やればいいだけの話じゃないのか?
元の文書を読みたい方は、朝日新聞社のサイト、AICで火曜日鐸木能光の「デジタルストレス王」なぜLinuxを捨てるのか、東大、をご参照のこと。
この文は、しょこでい氏のコメント
http://www.t-atelier.co.jp/shokodei/
(カナかな団の躁鬱・最新の日記692:学者馬鹿)に反応して書いた。
と、聞いて、片岡鶴太郎氏の昔の芸を連想する人は私と世代が近いに違いない。
これから話題にすることは、片岡氏の話ではない。
最近は、本業に気合いが入り始めていることもあってか、なかなかゴタクを投稿している暇がない。というより、既に900テーマを超えていることもあってか、そろそろネタが尽き始めていると云った方がいい。加えて、自分のプライバシーを公開するということもあってか、おもしろいネタがあっても描きにくいこともあるわけで、の、「てか」です。
「てか」の部分を書き直すと、
最近は、本業に気合いが入り始めていることもあって、なかなかゴタクを投稿している暇がない。というより、既に900テーマを超えていることもあって、そろそろネタが尽き始めていると云った方がいい。加えて、自分のプライバシーを公開するということもあって、おもしろいネタがあっても描きにくいこともあるわけで、と、なるわけで、自分自身が無意識に、てか、を連発していることに気がつくのです。
朝日新聞サイトで、「もあってか」で、検索してみる。ニュース特集、「北朝鮮核問題」
「米朝高官がNYで先月会談 北朝鮮は接触継続に意欲」と、題する記事の一節。
米国との2国間協議を求める北朝鮮に対し、米国は日韓中ロへの外交工作を活発化。北朝鮮にとって最大の援助国の中国が重油供給のパイプラインを一時停止させる動きもあった。その影響もあってか北朝鮮が最近は一時のような挑発行為に及んでいないことから「脅しに屈しての対話には応じない」という米国も、今回の接触に踏み切ったものとみられる。
思ったほど、新聞サイトでは、「もあってか」は使われていない。検索に掛かる記事の多くは、地方版「MY TOWN」の記事である。
MY TOWN 青森
「新しい顔ぶれ相次ぎ決まる むつ市議選」の一節。
使用済み核燃料の中間貯蔵施設誘致をめぐる住民投票条例案が否決された直後で、事実上、議会の姿勢を問う選挙となった。しかし、施設に反対を表明していた候補者が少なかったこともあってか、施設や住民投票の問題は必ずしも大きな争点になったとはいえず、選挙に対する有権者の関心度もいまひとつだった。
いずれも、もあって、と書き直して何も不都合はなさそうである。
「てか」を付けると、推論の根拠をぼかそうとする意図が出てくるように思う。「その甲斐あってか」、なら、何となく正しい使い方のような気がするが。
おそらく、書く側はそこまで意識していないのだろうが、気にし始めるとキリがない。私は今後、てか、を使わないように気を付けるつもり。読んだあなたも、多分、気になり出すと思う。
久しぶりに、生中継を満喫した私は、やはりモータースポーツのファンなのだと再認識。
めまぐるしく変わるトラックコンディションが、レースをより複雑なものにした。
タイヤの重要性については云うまでもない。エンジンのパワーは駆動系を通じてタイヤの回転運動に変換されるが、回転運動を進行方向へのベクトルに変換するのは、あくまで、タイヤ接地面と路面との摩擦である。ブレーキングはタイヤの回転運動を落とす役割しか果たさないから、車速を落とすのはやはり、タイヤと路面の摩擦である。どれほどすばらしいマシンを用意しても、スーパーテクニックを駆使しようとしても、タイヤ性能に決定的な差がある場合、そのギャップは埋め難い。
私は過去にクロスカントリースキーをやっていたことがあり、この地味なスポーツと、モータースポーツは多くの点で類似点があることにずいぶん以前から気がついていた。エンジンパワーはスキー選手の筋力であり、マシンはスキー板そのもの、そして、スキー競技の勝負を決めるワックスが、タイヤに相当する。
雨の中、レースは混乱していたように見えたが、実際に混乱の要因になったのは、雨そのものではなく、ウエット状態の路面におけるブリヂストン(BS)とミシュラン(MI)のタイヤ性能の決定的な差である。
BSユーザーたちは辺り構わずMIユーザーたちを蹴散らし、あたかも低速で移動するシケインであるかのように、多くのMIユーザーを扱った。
バンクはその構造上、路面が乾きやすい。乾き始めた後もMIユーザーたちはインフィールドセクションでのたうち回り、レースの興味はむしろ、BSレインタイヤの耐久性に注がれたが、結局何も起こらなかった。
BARホンダがトップを走ったのはおそらく、今シーズン初めてのことだろう。タイヤ交換時期の幸運があったとはいえ、彼らの走りは特に路面が十分に濡れている状態で、いくらかのリードを維持するのに十分なものだった。しかしながら、結局は2台揃ってエンジンが音を上げてしまった。シーズン終盤に来て、エンジンに構造的な欠陥を抱えるというのは、最近のF1ワークスチームとしてはきわめてお粗末で、失望させられた。
なんだか、どたばたとしたレースだったが、生中継ということもあって、楽しめた。降りしきる雨の中、スーパースピードウエィのバンクをレーシングスピードで疾走するマシンは、たぶんアメリカンモータースポーツでは味わえない。また、巨大なスタンドとコンクリートウォールのスリルも、インディアナポリスならでは。私はこのサーキットでF1のレースを見ることが好きである。
そろそろ最終回のはずである。ほとんど見なかった「こころ」。
幼稚園のバスの時間が変わったから、見やすくなったはずなのだが、息子が、「いないいないばぁ」などを、見るようになり、メジャーリーグ中継なども毎日やっていたり、した為かもしれない。結局、詰まらないドラマだったのだ。
色々と詰まらない理由はあるけれど、不自然な親子関係や、いつまでたっても着物が板に付かない主人公。朝から落ち着かない番組だった。いつも自分ではトラブルを解決できず、いつまでたってもまるで進歩のない主人公に嫌気がさし、見なくなった。
出演者が毎日のようによく使うせりふ、「そーんなぁー」って云うのも、甘ったれた感じで嫌だった。
見ていない間に、きっと主人公達も成長したのだろうと思うが、終わってほっとする番組と思う。
あたしンち、スペシャル(テレビ朝日系)を見たせいで、テレビを付けたらスポーツニュースをやっていて、それがニュースステーションのスポーツコーナーだった。
ジャイアンツ原監督の辞任を伝える「ニュース」をやっており、キャスターが、彼の憶測で何かを批判していた。監督のクビを切った球団のやり方を批判するようなことを言っていたと思う。それは憶測で、根拠があるならそれを伝えるのがニュースだと思うが、この番組はタイトルに「ニュース」という言葉が入っているが、ニュースではない。この番組をニュースだと思って見ると、頭が悪くなるから、注意が必要である。(私は、滅多に見ない。)その後、テリー伊藤氏、山藤章二氏が言いたい放題意見を述べるコーナーがあり、キャスター氏は、自分より言いたい放題を言っていた、などとコメントしたが、そういうのをマッチポンプということを、彼に教えるのは無意味だ。私はこの番組を見てはいけないと思っている。
原氏が辞めたことは、私には当然のことと思える。サッカーの世界では、特にコンサドーレ札幌を応援する人にとって、成績不振の責任を監督の辞任という形で示すことは全く違和感がない。
今の日本が抱える構造的な問題の根元に、指導者が結果責任を正当に取ろうとしないことを、私の職場の先輩が指摘した。彼に言わせると、日露戦争の乃木希典大将に問題はさかのぼるというのだ。そこまで行くかどうかは別として、指導者が、結果責任を取ることは私は必要なことと思う。
今回のジャイアントの成績不振に原因を探るなら、一つは、松井秀喜選手の抜ける穴の大きさを読み違えたことだろう。十分な補強をした積もりでいたようだが、スワローズをクビになった男が如何に強力なホームランバッターであったとしても、松井秀喜の穴を埋められないことは、素人の私にも想像は付いた。しかし、それだけで、その他大勢の一チームに落ちぶれたジャイアンツの成績は説明できないだろう。結果はすなわち、原監督の手腕が十分でなかったことを示している。
そして、原辰徳は自分の不成績の責任を辞任という形で果たしたわけだ。本人が、結果責任を痛感し、辞める、というのなら、何も問題はなく、球団側がよりよい指導者を見つけるか、見つけられないのであれば慰留するのが筋だろう。
ただし、結果責任を負うべきは、ひとり原辰徳だけで良いのかどうかは、十分に吟味すべきだ。責任を感ずる人が他にいるならば、原と共に辞めればよい。
原監督の表情に読みとれた無念さは、ひとり責任を取らされることに対する抗議の気持ちではなかったかと思う。昨シーズンの戦いぶりを見る限り、有能な指揮官のひとりと思っていただけに、残念である。
このごろ、来訪者が増えている。多くは、おやこニュースの方。特にお出かけ関係へ、検索ページ経由でいらっしゃる方々。季節柄、運動会ネタにも大勢検索からいらっしゃる。長居競技場で大きな試合がある前日は、長居競技場のネタにお客さんが大勢集まる。多い日で一日合計500ページ近い読み出しがある。
ゴタクにもアクセスログが設置してあり、過去ログを含めると一日数十名程度の来訪者がある模様。ほとんどが検索ページから。加えて、以前からこれを気にして、ブックマークしてくださっている方。律儀に、おやこニュースのトップページ経由できてくださる。
他に、アンテナ経由でいらっしゃる方もあって、アンテナの場合は、仕組み上いわゆる直接リンクとなる。ゴタクを補足してくださっているアンテナが私の知る限り二つある。
これらのブックマークの方や、アンテナ経由の方は、私にとって、とても大切な人たちである。わざわざ、これを読むために来てくださっているわけで、更新の、というか、新規投稿の動機付けにもなっている。もっとも、アンテナ経由の方の半分は、他人のアンテナを使って、試しにクリックしてみた程度と思う。が、自前のアンテナに、ゴタクを登録してくださっている方には、心から御礼申し上げる。
アクセスログにずらりと並ぶ、検索経由のリファラーを見ると、なんだか空しく感じることがある。きっと役に立ったことだろう、と思わせる検索語も、たまにはあるが、管理人自身が、どうしてその検索語でうちのサイトが引っかかるのかわからない様なケースが多数ある。おそらく、閲覧者の方も、ちらりと見て、訳がわからないと思って素通りするに違いない。ゴタクの構造上の宿命かもしれない。おおよそ無関係な話題が、いくつも並んでしまう。決して芸能サイトではないが、武内陶子アナウンサーや、宮地まおさんの名前で、結構な数のアクセスがある。
ゴタクは、まさしく私の御託で、文献的な価値は大変低い。おもしろい、と思って読む人にだけ意味がある。過去ログも、無駄な検索結果を増やすだけなら消してしまった方が良いのかもしれないが、中には、私自身が大変気に入っているものもある。投稿自由の掲示板の体裁に拘る必要はないのかもしれない。日記にしてしまった方が、きっと遙かに気楽で、管理人に取って、あるいは読者にとって有意義なのだろう。
検索にかからないような工夫をするなど、ゴタクのあり方を考え直さねばならない気がする。
職場に小さな書店があり、店頭に小さなワゴンが置かれた。
某ソフトウエアメーカーの格安ソフトを並べたワゴンである。なぜか、格闘家のボブ・サップ氏がイメージキャラクターで、両目を見開き、素っ頓狂な顔で宣伝している。
何故だ?世の中はサップだらけである。有名な人というのはわかる。あっちでもこっちでもサップだ。嫌いじゃないが、芸がなさ過ぎないか?
出演料の割に体が大きいからお買い得ということも無かろう。プロダクションが商売上手なのか。なんだかよくわからないが、出過ぎと思う。
御社のイメージがかえって薄まるような気がする。どうでも良いけど、なんか納得できない。とりあえずサップ、という不思議な世の中である。
かつて、玄人、オタクのパラダイスだったパソコン売り場は、今やダイエーからヤマダ電機、生協に至るまで、すべての市民に開放されている。
しかしながら、パソコンを選んだり、使いこなしたりするには、ある程度の専門知識は依然として必要であるから、初心者の方を相手にする売り場の店員さんはずいぶんと苦労なさっているのではないだろうか。
売り場で目につくのが、「対応」という言葉である。
バルクで山積みになっているCD−Rメディアに、XP対応、などとステッカーが貼ってあったりする。
「対応」と書かれると、マック呆けの筆者にとっては、今まで対応していなかったものが、ようやく部分的に対応を果たした様な、むしろネガティブな印象を持つ。なんだか信用できない、という気分になる。
想像するに、多くの「対応」表示は、どうぞ安心して選んでください、程度の初心者向けの売り言葉で、さほど重要な意味を持たない。いわば、客寄せの方便といえなくもないだろう。
しかしながら、対応か否かは、ユーザーにとってはかなり深刻な問題であり、安易に使われると混乱を生ずる。対応という言葉には、大きな責任が伴う。小売店も、メーカーも、対応という言葉にもっと慎重になって欲しいと思う。
対応も糞もないようなものに、対応云々を表示するのは止めて欲しいと思う。
忙しい人にとって、ニュースを手に入れる手段として、新聞社サイトは役に立つ。私も、読売と朝日、たまに産経と日経をみる。
ウエブの新聞社サイトは、比較的まめに更新されるので、原則的にその時点で最新の情報を手に入れることができる。
しかし、新聞社サイトは総じて詰まらない。
詰まらない原因は二つあると思う。一つは、アンカーに使う見出し、というか、記事の要約が分かりにくいこと。ブラウザのウインドウサイズに拘りすぎているのに加え、速報性のためか、十分な吟味がなされていない様に思う。
もう一つは、リンクが不十分なこと。ウエブ上にある以上、興味深い記事には、理解を助けるためのリンクを設置するのは当然に思うが、新聞社サイトそのものが外部からのリンクを、事実上拒絶しており、記事から参考すべきサイトへのリンクも無いか、あってもきわめて貧弱である。つまり、みる価値がない場合が多いのだ。
毎朝届く新聞は、ちらり、ちらりと目を通し、おもしろそうな記事は、夜寝る前にじっくりと読む。ウエブ閲覧と、印刷物の違いを、新聞社側が理解していない。どの新聞社サイトも横並びである。
考え直す時期にきているように思う。
二十歳そこそこの人たちの研修会に出席する機会があった。参加者たちは、ケータイが無い時代を知らぬ、ケータイが当然と思っている世代である。
「20分間休憩します。2時半までに集まってください。」
と言われて、同じグループの友人に、「ケータイで呼んでくれ」と、言い残して立ち去ることに違和感をもたない青年。
失敗談を声高に話す男性。「9時からと思って行ったら、誰も居ないからさぁ。あせって誰かに聞こうと思ったら、みんな圏外でさぁ。」圏外で、諦めたらしい。
彼らにとって、ケータイは依存する道具である。前者のように、単純に他人に依存しているうちは、まだマシ。後者のように、自らの身の振り方をケータイに依存するようになっては拙い。
人との大切な約束を違えてしまったとき、たとえば、電車が人身事故で遅れました、というのは、私にはやむを得ぬ理由と思えるかもしれない。
ケータイ前世代に属し、ケータイを持たない私には、圏外で連絡が付かなかったからと言われても、全く同情の余地はない。
ケータイを持たずに社会生活を営むことが困難な時代が徐々に近づいている。常識、非常識の基準が、ケータイを持つ人と持たない人で乖離し始めているのかもしれない。
阪神タイガーズが18年ぶりにリーグ優勝を果たした。私は、特に阪神ファンというわけではない。野球には興味があるが、どこのファンでも、アンチでもなく、強いて云えば個々の有能な選手たちを応援する。
私は甲子園球場のある兵庫県西宮市の住民の立場から、地元意識を刺激され、優勝を心から祝っている。
職場は甲子園球場の東側、自宅は西側にあり、通勤に阪神電車を時々利用している。甲子園球場前駅は特急停車駅である。
試合が終わる頃に職場を出ると、甲子園球場前駅で大勢の阪神ファンが乗り込んでくる。西向き、つまり、西宮・芦屋・神戸方面に向かう阪神ファンは、総じておとなしい。電車の中で馬鹿騒ぎをする人もなく、ことによると、ファンの雰囲気から試合結果が読めないほどである。
東向き(大阪方面)の電車は、かなり賑やからしい。
西宮市民は、甲子園球場の地元は西宮であるという意識を強く持っている。大阪市内の喧噪をよそに、地元市民は、静かに優勝の栄光を噛みしめている。
ひとつ忘れていたので、検証作業。
クラッシックから立ち上げて、ホンで、大丈夫かどうか。大丈夫だったらどうなのか、別にどうなるわけでもないのだが、とにかくやってみる。
下らないが、男にもデリケートな部分がある。どうしてデリケートな部分の痒みとかいうのは、女性の方ばかりで、男のデリケートな部分の痒みをケアしてくれるクスリが無いのだろう?
もし、男の股間の痒みを押さえる塗り薬など有れば、きっと多くの男性に感謝されるだろうと思う。プロ野球中継を見給え。一塁に立ったランナーの9割7分は股間を落ち着かせようと、モーションをおこなう。痒いのである。
女性のクスリのコマーシャルは大胆だ。男性用も是非、あのテンションでCMを用意しすれば、大ヒット、そして大変な話題を呼ぶことと思う。どうして誰も手を出さないのか、もったいない話しと思う。
検証結果。落ちません。落ちませんが、強烈な息突き。OSXなら、絶対に落ちていると思われるような、ブレイクが頻発、ということは、やはりハード上のトラブルがあり、それにソフトの不都合が重なって落ちる、ということでは無かろうか?というのが結論です。
BLOGという言葉の意味がわからず、そういうものがきっと世の中にあるに違いないと思っていた。そういえば、検索すれば、わかるに違いないと思い、ヤフーに調べてもらい、何となく理解した。
そうか、よくある。
いろいろな情報を入手し、多くは日記形式でコメントを付ける。情報、つまりネタは、どこから手に入れてもいいが、ネット上であれば、アンカーを設置すればよいので、合理的である。どのようなネタを持ってくるかは、管理人、あるいは作者の腕の見せ所である。
どのようにネタを集めるか、そしてそのネタをどのように処理するかがすべてと言っていい。現実には、サイトデザインなども重要であるけれども。
そういったネタを集めるのに、アンテナはこの上もない道具である。そして、ネット上に繋がってゆくいくつもの情報を効率よく閲覧し、つなぎ止めてゆくのに、タブブラウザは最適なインターフェイスを提供する。
後はネタの処理である。あくまでネタを並べる、一種の動的なリンク集と割り切れば、ネタ8割、コメント2割で十分だろうし、一つのネタから、自分の考えを膨らませていくというのも一つのやり方だと思う。
速報性、更新頻度(フレッシュなネタを提供する上で重要)を重視するなら前者だろう。しかし作者のオリジナリティを発揮するのは簡単でない。(結局デザインに凝ることになるのかもしれない)
ネット上に存在する以上、リソースとしての価値を高めることが必要になると思う。