パソコンのキーボードに慣れるのにそれほど時間がかからなかった。
私が子供の頃、電卓がとても珍しいものだったし、テレビのチャンネルも電話機も回すものだった。プッシュホンという言葉は今となっては死語であるけれども、プッシュホンの貯金箱にお金を貯めたことがある。そういう世代である。
初めてパソコンや、ワープロにふれる以前に、私はタイプライターをいじった経験があった。姉が持っていたものを使わせてもらったのだ。だから、キーボードの操作には余り違和感が無く、ローマ字入力にはすぐに慣れた。
一頃は手紙を書くのにワープロを使っていた。(ここで云うワープロは、パソコン上のプログラムのことである。)
保存したり、書き直したり、修正したり、並べ替えたり、そういった作業が自由に行えるワープロは手紙を作るのに優れたインターフェイスを持っている。
最近は、手書きすることが多い。ワープロを使う手紙と、手書きするものを明確に区別しているといった方がいいかもしれない。ワープロで済ませるなら、メールの方が便利で現実的と思う。結局、手紙のほとんどは手書きになる。
手紙を書くときは万年筆を使う。筆記具の中で、万年筆が一番好きなのだ。私は字を書くことが余り上手でない。上手な字を書く自信がない。筆圧が強い。万年筆はそうはいかず、私は道具に合わせることを強いられる。改まった内容を書こうと思うとき、道具にあわせることを意識せざるを得ない状況が、客観性を保つ上でちょうど良い。冷静さを保つ効果がある。
万年筆で手紙を書くなら、下書きにも万年筆を使うべきである。ワープロで下書きすることがあるが、結局役に立たないことが多い。縦書きの便せんを使うのであれば、下書きも縦書きにするべきで、思考に伴い自分が行う動作、つまり、万年筆を右手に持ち、考えを縦向きに書き連ねる、しかも、ペン先をある一定の圧力の範囲で、紙の表面に擦りつけながら、という、一連の動作が、思考パターンに大きく影響する。両手を使い、キーボードを操作する動作がもたらす発想と、根本的に異なる結果が生まれる。
名文は、それぞれの道具の元でできあがる。普遍性を持つ作品もあるだろうが、私の場合、キーボードを使って作った名文は、万年筆を使って縦書きの便せん上に置き換えた途端、存在意義の半分を失ってしまう。
万年筆はパーカー製を愛用している。アメリカのスーパーマーケットで手に入れた、5ドルほどの安物がいたく気に入り使っていたが、いつの間にか無くしてしまった。今は、祖父にもらった、ちょっと立派なものを使っている。インクが乾き、使えなくなっていたのだが、超音波洗浄機で復活した。インク瓶から吸い上げてインクを補給する。
娘がインク瓶に興味津々である。魔法の薬が入っていると思っているらしい。
パワーブックが深刻なトラブルに陥り、解決の見通しが立っていない。
キーボード入力中に、前触れ無く停止する。システムを巻き込んで機能停止するため、その時点までに書き込んだ内容のすべてが失われる。トラブルが発生し始めてから、莫大な入力結果が今までに失われている。
書く気力が萎える。
キーボード周辺のハードウエアのトラブルと思われる。USBに外付けキーボードを接続するとトラブルは回避されるようである。パワーブックのキーボード交換まで行ったが、解決にはほど遠い状況。
OSXを使い始めて一年ほど。その間、OSの安定性には、十分な信頼を寄せていた。キーボードとパソコン画面を通した思考パターンに慣れてしまっているだけに、事態は深刻である。何時止まるともしれないコンピュータで作業を続けることは、脳の組織の一部を失った様なものである。
実は、このようなことを書き連ねるのは、検証作業の一部なのである。外付けキーボードの使用によってトラブルが回避されると云う確証を得るための検証作業中ということである。
トラブル発生以来、莫大な文章と、時間と、モチベーションを無駄にしたような気がする。
やはり、外付けキーボードは、トラブルが回避できるようである。
なんか、不思議な気分。つまり、内蔵のキーボードのインターフェイスの部分に問題ありと云うことなのか。どうしよう。
どうにもこうにも、困ったものだ。
しかし、本当に外付けキーボードなら大丈夫らしい。この上、キーボードまで持参して歩くのも馬鹿みたいだ。
ハンガロリンクサーキットが絵にならないと書いたが、鈴鹿も、そういった魅力がないことに関しては大差がない。
私が美しいと思うサーキットは、起伏に富んだサーキットである。
数あるレーストラックの中で、別格のモンテカルロも、実に起伏に富んでいる。ボウ・リバージュの上り坂を駆け上がってゆく姿、ミラボーに向けて、駆け下るマシン。ローズヘアピンを抜けてゆく一列渋滞。マシンは、坂道を登り切った頂点で、南仏の青空と一体となる。
林間部分をはしょってしまった新ホッケンハイムは、無惨なサーキットになってしまった。興行上の理由なのだろうが、全く残念である。
かつて、耐久選手権がグループCで行われていた時代、純白の素肌に紫のドレスを纏ったジャグァXJRは、史上もっとも美しいマシンの一つだった。トラブルを抱え込み、モンツァのコースサイドにマシンを寄せたジャグァは、すでにドアが開かれ、主はマシンの元を離れていたが、花の咲き乱れるモンツァのコース脇にたたずむXJRは、まさしく一枚の絵画であった。歴史と伝統を遙かに超えたモンツァの魅力である。
最近の流行。ついていけないのは年のせいか、思考回路の老化が進んでいるせいかもしれない。
女性の服装の話。この間まで、股上の極端に短いズボンが流行っていたと思ったら、最近は股上は元に戻りつつあり、上着の丈の方を短かくするのが流行りらしい。反り返ると腹が見え、かがむと背中が見える。以前は尻の上半分が見えて、これをハンケツと称していた。今回は、尻の代わりに下着がはみ出している。
たぶん見せるための下着なのだろうから、見せている方は全く無頓着らしい。見せられる方は気持ちよいものではない。
腹にせよ、背中にせよ、見せられる方は、それを見て良いものやら、目をそらすべきものなのか、判断に苦しむ。むしろ見たくない、つまり余り健康的でないものを目撃してしまうこともしばしばである。
お嬢さん、おなかが見えていますよ。と、指摘したところで、端から隠すつもりがないのだから意味がない。多くの腹や背中を見せている女性たちに、見せようと云うポリシーは無い様に思う。
それに困惑する私と、平気で腹や背中を出す彼女たちと、どちらが普通なのか。出す方が普通とする根拠はそれが流行だからということだけであるなら、半年後に流行が過ぎれば、彼女たちは二度とその衣装を身につけることはないだろう。彼女たちはあまりに無責任である。
と、オヤジ臭い愚痴になってしまい、恐縮している。
キーボード交換しましたが、全然直っていないみたいです。
どうなっているのでしょう?
症状は、システムが突然、完全に止まります。止まるのは、キーボード入力中です。
以前には無かった症状です。どうしてでしょうか?
USBキーボードを外付けにして使うと大丈夫のようです。
なんともはや。
私はけっこう野中さんが好きだ。
最近の政治家の多くが、横柄だ。偉そうだ。しゃべり方に誠実さが足りない。誠実さとは、支持者や国民や、地方自治体なら、地域住民に対する誠実さ、それ以上に、自分自身に対する誠実さに欠けている。解りにくいだろうか。
要するに、この人は心にもないことを云っている。というのが、それだ。
そして、支持者には甘言。国民の前で、格好は付けるが、国民のためという一言を云うことが彼らにとって随分おっくうな行為のようで。私は国民の支持を自分の力と勘違いしている現職総理大臣が嫌いである。
そいつにすり寄る、元同僚を真っ向から批判した野中さん。私は、今引退するには惜しいと思う。それ以外のやり方がある様な気がする。言いたい放題言い続けて下さることを期待する。自分の気持ちに誠実な政治家の強さを、見せていただきたいと思う。
体に良いから何かをしたり、食べたり、使ったり、飲んだり、というような発想の多くは正しくない。
体によい食べ物など、そうあるわけもなく、さかなを食べると頭が良くなるなんて云うのも怪しいというか、ただの売り文句でまに受けてはいけない。
ポリフェノール入りとか、そんな物は昔から入っている。最近になってそういう物質が明らかになっただけの話である。
体に悪い食べ物ならあるかもしれない。いくらイオンが出たところで、エアコンが体に良いはずもなく。
一種の宗教としてなら、まぁまぁである。ナンタラ健康法とか、その手の多くは、信じた人にだけ効果がある。
薬のコマーシャルで良くある模式図のほとんどは、大げさな強調を含んでおり、見る人の判断を惑わせる。
政治家さんは楽じゃない。何年かに一度、国民の審査を受けなくてはならない。
みっともないところは見せられない。一般ウケしなくてはならない。
自民党の総裁を選ぶとなると、日本のソウリ大臣を決める選挙だから、なかなか大変な話だ。多くの人々が注目する。ニュースにも多く取り上げられる。
自分の主義主張を貫こうとする人や、勝ち馬に乗ろうと右往左往する人。後者はみっともないったらありゃしない。
「人柱に、、」とか云っていた人が一番みっともないと思った。何よ、人柱って?人前に出る前に、何を言うか決めておいた方が良いよ。一言くらい、国民のためとか、国のために、とか云ってみる気にはならないのかな?
俺は、ベッカムにはあまり興味がない。というか、そりゃ、いないよりいる方が良いだろうが、リガエスパニョーラの魅力にとって、彼の存在はほんの一部分とおもうから。
彼が加入したから月に2000円払って試合を見ようという人と、馬鹿げたベッカム人気のために、余分なお金を払わざるを得なくなり憤慨している人の数を比較すると、多分後者の方が遙かに多いと思う。
願わくば、このベッカム人気が一過性ではなく、WowWowによるスペインリーグ中継が大成功し、さらに色々な試合がメディアで取り上げられることを望む。
しかし、何もスペインリーグ独占にしなくても、ベッカムの出るレアルのカードのみの独占で良かったはずなのに。
とりあえずは迷惑な話。
埼玉県に住んだことがある。結婚してから6年間、所沢の住民だった。所沢は埼玉県南部。東京都の境目にある。埼玉都民というような言い方がされることがある。
地図上では小さく見える埼玉県であるが、実はかなり広い。所沢は県民意識がかなり低いという印象を持ったが、ほかの地域のことはわからない。
6年間、地方自治体の選挙に一度も参加しなかった。私の地方自治に対する関心が薄かったことに加えて、私の友人たちも、地元意識が薄かった。埼玉県そのものに興味が持てなかった。県知事の顔と名前を知っていたのは、かかりつけの小児科の一階にある調剤薬局の待合いに彼のポスターが貼ってあったからである。
前知事はかなりの大物だったらしい。お金にまつわるトラブルで退いた。
その後の選挙が先日あった。話題的には若干古いが、パソコンがトラブッているために、なかなかタイムリーに話題が出せない。
民主党系の候補が圧勝し、投票率は35%ほどだったらしい。
ただでさえ、関心が薄いところに、大物知事が情けない身内の不始末で途中辞職。県民の冷ややかな視線に誰が一番耐えられるかを競った結果だろう。
いくら投票率が低かろうが、選挙結果は有効であり、たとえ県民の1割程度の支持であったとしても、新知事がこの先4年間、不始末さえしなければ一応県政を受け持つわけだ。
彼に投票しなかった9割の県民は、県政などどうでもよいと思うかもしれない。
民主主義の崩壊は地方自治から始まっている。
依然として、パワーブックの不調が続いている。
システムの新規インストールを行ったのだが、たいした解決になっていない。ゴタクも、書き始めた途端にフリーズという状況で、思うに任せず。いつ何時、止まるか解らない。実際止まる。書く意欲が萎える。
デスクトップ、G4/400を使っている。CPUパワーがかなり落ちる。しかし、こちらのOSXは調子がよい。まず落ちないという信頼感がある。気が付いてみると、パワーブックで色々と誤動作があるソフトが、G4ではきちんと動いている。どうなっているのか解らないが、とりあえず、再手術中のパワーブックの隣でデスクトップG4に向かっている。
パソコンが深刻なトラブルに陥り、数日間を無駄にした様に思う。
入力中に突然止まる。一切の操作を受け付けなくなる。それまでに入力した全てが失われる。それまでに入力したものは、パソコンのキーボードを使って、膨らませたアイディアである。
パソコンの機能停止によって、自分の思考過程は途切れ、曖昧な記憶を頼りに、あらためてその道筋を辿らなくてはならない。
初めてワープロを使ったとき、思考の道具として、革命的とも感じた。
メモし、記録し、複製し、移動し、削除する。ワープロの編集画面自体が思考過程のバッファーとして機能する。肯定的に捉えるかどうかを別にして、パソコンを用いた思考過程は独特である。
パソコンが不調であるときの対処法は、まめにセーブすることである。セーブするたびに、思考は一時停止する。バッファにため込む動作から、ため込んだバッファの内容を確認する動作に移ってしまう。納得するところまでバッファにため込み、そののちにセーブするのが本来である。
従って、パソコンの調子は、操作するものの思考・発想の過程に大きく影響すると感じた。
思考過程が、些細なトラブルで失われることの喪失感は実に大きい。失われたものは還ってこない。喪失感はモチベーションを失わせる。
そういうことに苛まれた数日間だった。
午前3時まで眠い目を擦り、中継を眺めている人のほとんどは、ズエツグ選手を見たい人たち、という、読みというか、私には開き直りに思えるが、眠らせないような様々な配慮は、結局競技をなるべく見せず、あらかじめ用意したVTRを流し続けるという結論。
普段はなかなか見られない競技、しかも、世界最高レベルの、を見たいと思う陸上競技ファンは、事実上無視されている。
9割が、ダイジェストとスタジオのおしゃべり。なんか、つまらん。いや、VTRもおしゃべりもそれなりに面白いんだが、それならわざわざライブ中継を見る必要もないきがする。
CM:広末涼子さんがヤフーBBのCMに出演している。一句出来ました、とか、・・・デヤンス。とか、とっても、下らない気がする。
ここまで書いて、後は書き込みボタンを押すばかり、というところで、フリーズ喰らった管理人の気分を想像してみて下さい。
始まってしまった。良くわかんない、と云っていられない。ちょっと興味を持たなくては。
というわけで、メモ。
おそらく自治体が従来管理していた様々な個人に関する情報を、国が一元管理するというシステムらしい。このネットに参加すると云うことは、住基カードを受け取るかどうか、とか、自分に11桁の番号を付けるかどうか、という問題ではなく、自分の個人情報ファイルを国が管理することを許すかどうか。
住基カードは結局、自分の個人情報をデータベースから引き出すための個人照合システムで、これはネットの意義から行くと、枝葉末節の部分である。
データベースが稼働し始めると、これは元々個人情報を一元管理しようというものだから、様々な情報が集積されると思われる。つまり、パスワードひとつで、ある人の様々な履歴がズラズラ〜っとモニタ上に表示されることになるだろう。どこからいくら給料を貰い、どこの病院にどういう病気で掛かり、何のクスリを飲んだか。学歴、交通違反歴、犯罪歴、納税歴、いつ誰に郵便を出したか、そのほか色々。歴と名が付く全てはデータベースに加えられてゆくことだろう。
システムとしてはかなり信頼性の高いものに出来ると思うが、セキュリティの問題は完全と云うことはあり得ない。銀行員が客のお金をちょろまかしたり、学校の教諭が生徒の脱衣所を覗いたり、警察官が市民のスカートの中を盗撮したり、バス運転手が酔っぱらいで事故を起こすご時世である。
また、どのように運用されるかによって、セキュリティ上の問題は大きく変わってくる。
ネット参加は自己責任が原則であるし、ことの重大さを考えると、もう少し様子を見ながら、取りあえず、自由意志で参加で様子を見る、というのが良かったんでないかと思う。数年運用して、みんなに信用してもらってから、ってことで。
市民の利便性を考慮している部分以上に、何か胡散臭い下心が見えて、嫌な感じ。拙速と思います。
もう、何かいていたか忘れちゃったよ。
パソコン替えました。
オダのことなど、どうでも良い気分になってしまいました。もう寝ます。いくらはしゃいでも、グダ巻いても構いませんので、極限に挑むアスリートを「馬鹿」呼ばわりするのも、もう気にしません。
訳の分からないキャッチフレーズを選手に付けた上、連呼してしらけたムードにすることも、別に狙ってやるなら仕方ないと思う。
アナウンサーさん。あなたの仕事は、視聴者のじゃまをすることではないはずだ。局アナのつらさは解っているつもり。
頼むから、えー、、
室伏くんが、ハンマーを持ち上げて、くるくる廻しだして、放り投げるわずか数秒間、出来れば大人しくしてくれないかな。
ハンマーが空中に放たれた後は、何を叫んでも構わない。
それから、たかが15分間の5000メートルレースの途中でコマーシャルを入れるのも止めて欲しい。途中で飽きるからとか、そういう心配をしてくれているのかなぁ、
なんかねぇ、、、
また、止まりました。
もう戻ってきません。時間の無駄。オペラでも同じように止まるので、モジラファイアバードのせいではないらしい。
取りあえずアトックのアップデータをダウンロード中。
色のセンス、それだけじゃないと思うが、なんだか重苦しい、見苦しいデザイン。それがまた書く気を失わせる原因のような気もしたので、スタイルシートを作り直しました。
ちょっとさわやかな雰囲気を目指したのだけれども。
昨日までよりはマシでしょう。
取りあえず、Mozilla Firebirdを止めて、今はオペラ6.0.3を使っています。びっくりするようなバグというか、表示の乱れが楽しい。
日本語を使っているせいなの?
昨日から、フリーズしまくっている。
ドリームウィーバーか、ATOKか、もしかするとMozilla Firebirdのせいかも。
突然、カーソルが消えて、全ての操作を受け付けなくなる。オプション+コマンド+エスケープでアプリケーションの強制終了もダメ。
良い文章が書けたなぁ、と思ったところでフリーズ。失われると、二度ともうかけない。
プロの物書きはどうなんでしょう?同じ文章、もしくは更に良い文章を書き直せるんだろうか?
私はダメ。無くした文章はもう戻ってこない。く、、、、、
TOKIOのファンの娘と、24時間テレビを一部、ほんの一部みた。
この番組が始まって、20年あまりと思う。その頃から比べると、障害者の置かれている環境も変わり、社会のシステムも変わり、何より、人々の意識も変わっていると思う。
思うに、寄付を集めて何かを贈る、経済的な支援は本来行政が行うべきもので、こういったマスコミを通したキャンペーンの目指すべきところは、障害者福祉に対する健常人サイドの意識向上なのだと思う。
健常人サイド、と私が意識すること自体が、すでに差別であることを考えると、このように年に一度、障害者福祉について考えようと云う企画そのものが、最近の水準に照らすと、すでに時代遅れで、逆に差別意識を助長する部類に入る危惧を覚えた。
障害者も、健常者も一生懸命日々を生きている。ドラマの中で長瀬君と深田恭子さんが演じた夫婦もなかなかのものだったが、私がドラマを見ていたこどもに言いたかったのは、あなたの親達も、長瀬君たちと同じように、不安に駆られることがあり、困難に躓くことがあり、それでも愛し合い、一生懸命生きてきたということ。ほとんどの人々の人生は、そのものがドラマで、生きてゆくことは、障害のあるなしにかかわらず、なかなか厳しいものなのだと云うこと。
番組はあくまで、健常者に感動させることが目的のように感じ、いくらか安っぽい印象を持った。障害者の方々が、この番組を見て、どのように感じるのか、私には判らない。
タレントを並べる目的は、年少のもの達の関心を集めることだろう。それだけに、もっと崇高な理想を掲げるべきではないか。曲がり角に来ている、というより、すでに曲るべき角を曲がり損ねているように感じた。
何故、ハンガリーGPが今もって続いているのかよく分からない。
あらためて眺めると、ハンガロリンクは絵にならないサーキットである。カメラアングルのせいか?
マイケルが屈辱的な周回遅れに沈み、それでも1ポイント獲得。
アロンソの最年少優勝。独走に次ぐ独走で見事だった。そしてチャンピオン争いは混沌としてきた。
インタビューを聞いて、驚いた。3位に入ったモントーヤの発言。
「マイケルはオープニングラップのターン1までアグレッシブだった。ターン2で諦めた様だった。」まさか、と思っていたら、その後にマイケルのインタビュー。
「今日は僕の日ではなかった。何となくリズムに乗れなかった。」
それでも、1ポイントが取れたことを感謝するべきだろう。最大のライバルに、マシン越しに心理を見透かされていたマイケル。
おそらくはタイヤだろう。タイヤが原因であるならば、マイケルの立場は苦しい。もはやチャンピオンの資格無しと言っていいかもしれない。
サーキットは詰まらないが、レース自体は面白かった。しかし、近藤氏をメイン解説者に据えるのは、いかがなものだろう。前振りが無駄に長く感じるのもどうかと思う。