わたしには女性がどう考えるか、よく分からないが、、、
朝から雨降りで、電車を利用した。普段はバイクである。傘を手に電車を待つ人たち。傘の柄。透明なビニールのカバーを付けたままの人が結構居るのだ。
わたしは剥くのが好きである。傘の柄のカバーを付けたままで使うなどと言うことは決してしない。皮を剥くのは、それを手に入れてオーナーになった特権である。車の内装やら、電器製品の防護カバーやら、すぐに剥がす。近頃は滅多に無いが、子供の頃は膝小僧に出来たかさぶたを剥がした。きれいに剥がれることに、いくらか快感を感じている。
男の性なのかと思っていたが、電車の中でカバーの掛かったままの傘を持ち歩く人のほとんどは男性なので、別に性別には関係ないらしい。
フリーのソフトを使わせて貰っているのです。
この掲示板は、スタイルシートを使える優れものです。今までの掲示板は、いろいろと機能が付いていて、まぁ、それはそれで満足していたんだけれど、表組みでレイアウトしていたので、過去ログに移すときになかなか苦労させられました。デザインもほとんどいじれませんでしたし。
この掲示板を使い始めたのは、Shock-O-dayというサイトの日記に使われているのを見て、素晴らしいと思ったからです。
http://www.t-atelier.co.jp/shokodei/diary/picobbs/
素晴らしいデザインで、掲示板とは思いませんでした。プロの仕事だろうと創造しますが。見栄えのみならず、内容もなかなか興味深いものです。
と、云う訳で、ダウンロードして設置したのですが、わたしが普段使っているNetscape7(mac)では、スタイルシートが効かないのです。Mozillaでも試しましたが、ダメです。エクスプローラやSafariでは、きちんと見られるのです。理由が分かりません。誰か、解決法をご存じの方が居たら、教えて頂きたいです。
掲示板のソースをリモートで開くと、Netscapeでもきちんとスタイルシートが効くのですが、、、
忙しいと言いながら、何やってんだか、、、
靴にしても、ジーンズにしても、真新しいものは、結構緊張するものです。掲示板もそうです。
ちょっと忙しい日々。
過去ログでもご覧になって下さい。
http://www1.linkclub.or.jp/ ̄naminchi/cgi-bin/jboard/jboard.cgi
http://www1.linkclub.or.jp/ ̄naminchi/archives/archives.html
それから、おやこニュースの方も、
http://www1.linkclub.or.jp/ ̄naminchi/top2.html
掲示板を移すことにしました。
今までの掲示板は、投稿内容を全て過去ログに移した後に、消しますので、ブックマークなどの変更をお願い致します。
新しい掲示板は、スタイルシートで見栄えを変えられるのですが、Mozilla、Netscape7では、わたしにはよく分かりませんが、スタイルシートが適用されなかったり、ブラウザのリロードで、前回の投稿記事が繰り返されたり、問題があります。
恐らく、わたしの設定の問題と思うのですが、よく分かりません。
それから、投稿番号も1番からとなってしまいます。
そのうちに直すつもりです。
今後ともよろしくお願い致します。
いつも閲覧して頂き、ありがとうございます。
掲示板を移すことにいたしました。
新しい掲示板のアドレスは、
http:/www.oyakonews.com/cgi-bin/gotaku_cgi/picobbs.cgi
です。
事情といたしましては、新しい掲示板はスタイルシートが使えて、テーブルレイアウトでない。つまり、過去ログを移すのが、恐らくとても楽だろう、ということです。
他にも、ちょっとした事情はありますが、、、
今後はこちらに記事が増えることは無いと思います。
今残っている記事を、過去ログに収めて、こちらは閉鎖することにいたします。
ご面倒をお掛け致しますが、ブックマークなどの変更をよろしくお願い致します。
管理人
職場の帰り道、カーラジオからニュースが流れた。
与党の有力な衆議院議員の方が、衆議院の解散、総選挙について、今は一刻の政治的空白も許されないから、やるべきではない、といったとかナントカ。
数年前にも、その前にも、同じようなせりふを聞いたような気がする。
よくそんなことがいえるものだ。
お国の一大事だから、選挙なんぞやっている場合じゃない、というのは、私は権利を著しく侵害されている気分になる。一刻の空白も許されないとか言いながら、随分ムダに時間が過ぎている。「一刻の空白」云々は、タダの方便で、選挙権を侵害する暴言だと私は感じる。お国の一大事を言い訳にして国民の権利を奪う発想は、戦時期の全体主義者のやり口に似ている。
だいたい、今どうして解散総選挙が話題にあがるのかよく分からない、、、
と、思っていたら、自分の公約を、「この程度」の約束、と言い捨て、守れなくても大したことない、と、総理大臣が言ったとか。
なんでも、もっと凄いことを考えているらしい。
選挙公約を守れなくなった時点で、総選挙で公約を出し直しても良いような気がするが、その公約を、「この程度」呼ばわり。あげくに、もっと大きな問題を処理するとか。
何ですか、そのもっと大きな問題とやら。なんだか選挙、やった方が良いような気がしてきた。
時間がない。手短に。
自宅の共同住宅は二階、職場は三階にあり、幸いほとんどエレベータを使わずに日々を過ごしている。その為か、近頃のエレベータの閉まる、閉じるボタンにいつも困惑する。
自分が誰かとハコに乗っているとき、(私は他に人がいるときには閉まるボタンをおさないのだけれど)、扉が閉まりかけ、誰かがエレベータに近づいてきたのが見えたら、やはり開く、ボタンをおしてあげる方が良い。
「あっ、(開く)を押さなくては、」と思うのだが、あの妙な記号のどちらが(開く)なのか、即座に判断が付かない。間違えて(閉まる)の方を押してしまったこともある。気まずい雰囲気になる。単に私が物わかりの悪い唐変木で、普通の皆さんには、全く問題なく、直感的にどちらのボタンか判断が付くのかしら?
テレビやビデオのリモコンのチャンネル切り替えのボタンは、たいてい上向きと下向きの矢印が付いている。不本意ながらニッテレ(関西では10チャンネル)を見ていて、さて、フジにしよう。と思ったとき、上矢印を押すべきか、下矢印を押すべきか。テレビのチャンネルを、空間認識的にイメージすると、上から下に、#1・・・#12が並ぶのである。(私の場合)
つまり、私にとって下向きのナビゲーションは、数字が増えてゆく様な気がするし、上向きのナビゲーションは、数字が減ってゆくような気がする。もちろん、現実は上向きを押すとチャンネルの数字が増えるようにテレビリモコンはセッティングされているから、10チャンネルから8チャンネルに変えたい時は、「なんと!」下矢印を押さねばならない。私はいつも困惑する。矢印を、上下向きではなく、左右向きにすればよいと思うのだが。
こんなこに違和感を感ずる人は、他にあまりいないのだろうか?
ウエブには日記サイトが多数。私も楽しみにしているサイトがいくつかある。
おやこニュースの中にも、日記のような、日付で括って更新しているページが二つある。日々のニュース
(http:/www.oyakonews.com/aboutus/news.html)と
道具としてのパソコン
(http:/www.oyakonews.com/oyanews/newstop_HP.html)
の、二つである。
さて、日付順に並べるとき、新しい日付をアタマに付けてゆくのと、おしりに付けてゆくのと、どちらがよろしいのだろうか?
日々のニュースはアタマに、道具としてのパソコンはおしりに付けている。
単純に更新作業を考えると、後ろに加えてゆく方がどちらかというと楽そうだ。毎日訪れる閲覧者にとっては、そのページを開いて新しい記事が真っ先に目に入る方が、良いのかもしれない。実際、多くの日記サイトは新しいネタを上に付けていくものが多いようである。日記掲示板も上に付けてゆくのが一般的のようだ。いつも訪れるサイトならあまり問題はないが、リンクをたどって行った初めてのサイトでは、私はたいてい混乱する。どう見て良いか、分からなくなる。特に、一日に何度も更新するようなサイトでは、行って戻ってを繰り返さないと話の筋が理解できない。
幸いなことに、私はHTMLのソースを見る、と、いうコツを知っているので、それはなかなかの助けになるが。時系列で並べようというのなら、下に付けてゆくべきだろうと思う。手当たり次第に、上に新しい記事を加えられると、思考経路が辿りにくく、この人は何故にそんなに腹を立てているのか、さっぱり分からないというようなサイトも、、、
くだらない相手にあまりムキにならない方が良いんじゃないかなぁ、と思うこともある。
このごろ、掲示板を利用した日記が多いらしい。更新の手間は、CGIを使えば楽だろう。そういったサイトには、「本日のリンク元」を表示しているところもある。その意味がやっと先ほど分かったところ。
もう寝ます。
以前のゴタク(番号650-601)はアーカイブズのページに移しました。
http:/www.oyakonews.com/archives/gotaku/gotaku650.html
というお知らせ。
ちょっと忙しいです。
クローン、つまり体細胞クローンというやつだが、とある宗教団体が、やったとか、証拠がないとかなんとか。
クローンは止めておこう。技術的に、可能だということは数年前に羊が一匹生まれたときにはっきりしている。科学者は、世界初 が好きだ。しかし、この技術はもう、学問的興味を抱かせるものではなくなっている。当たり前の技術なのだ。
技術と原理の理解は別の話。今は元気そうなクローン動物たちが、数年後にどのような運命をたどるかはまだ誰にも分からない。こうして、こうやれば、クローンの赤ん坊が生まれる、というところまでは分かっているが、生まれた赤ん坊が無事に成長して天寿を全うするものなのかどうか、肝心なところはブラックボックスのままなのだから、誰にも保証できない。羊や牛なら、かわいそうに、で済ませられるかもしれない。実験動物というのはそういう扱いを受けるものだから。しかし、クローンとはいえ、人間を実験人間として処理するわけにはいかないだろう。確立している技術が、体細胞から胎児を作り出す、という段階であって、生まれてくる赤ん坊が完全なものかどうか、現状では知るよしはないのだ。
多分続く
続きます。
私はこれといった宗教的なバックグラウンドがない。クローン技術が神の冒涜とか、そういうことを言うつもりはない。
不幸にして子供を失った方や、心から望んで恵まれない方々は本当に気の毒だと思う。解決できるように、医学や科学技術が手助けできると良いと思う。
しかし、体細胞クローンによる個体の製造となると話は別である。
人間は自分の都合で自然を造り変えてきた。数億年かけて自然が構築してきたバランスを破壊し、大量のエネルギーを浪費することで何とか維持しようとしている。そういったエゴが環境そのものに大きな負担を掛け、やがては人の住めない状況を作り出すだろう。もういい加減に気がつくべきだ。生命は生殖によって遺伝子の交配を行い、生命を進化させ、環境への適合を図ってきたのだ。体細胞クローン技術は、進化の拒絶である。
人の死は、その遺伝子の断絶を意味する。私たちは死を避けがたいものとして受け入れねばならない。そうすることで、生命は進化し、環境に適合してきたのだから。体細胞クローン技術は個体の死と遺伝的な断絶が一致しなくなることを意味する。
実験室レベルで行われ、私たちのクオリティオブライフを向上させるための新たな知見を得るために行われるならともかく、それを実用化しようとするのは、間違っている。クローンによる生命は実験室内に隔離しなくてはならない。
たとえ、牛や羊であっても同じことである。
体細胞クローンの誕生は、自分自身や、他の誰かの遺伝子のコピーを残すことになる。そのようなものを残すことに何の意味があろうか?
何としても、クローン技術に頼ってでも、子供がほしいという、人間のエゴは科学技術が解決するべきものではない。私はそちらの方面には全く暗いが、宗教が活躍する余地があるのではないか。
私は、いくらか上等な肉や牛乳を生産するからといって、家畜のクローンをつくることにも反対の立場である。クローンによって生まれた生命は、決してそれ以上になることはない。クローンは生命の進化を奪う。
日曜日の夕方は、「課外授業、ようこそ先輩」を家族揃って見る。揃ってと断るほど揃わない我が家であるが。今日はアニメ作家の指導のもと、こども達がアニメーションを作った。どのくらいヤラセが入るのか知らないが、良くできた番組と思う。小学6年生という世代が微妙で良い。理解力もそれなり。しかし、まだ子どもの雰囲気を残す。芸術を作らせたら、大人たちは子どもに対抗するのは難しい。多分、中学生ではあの緊張感は出ないだろう。
図書館から、サザエさんを借りてきて、長女が夢中になって読んでいる。わたしも子供の頃に良く読んだ。面白いらしい。とうとうアニメのサザエさんも見たいといいだした。
わたしは、アニメ版のサザエさんが好きではない。長女がサザエさんを本当に気に入っているのは認めるが、日曜の夕方は、ようこそ先輩が優先である。その後にサザエさん。
サザエさん一家がよく分からない。小学生の子どもが居るにしては、波平とフネは歳を取りすぎているような気がする。サザエとも年が離れすぎている。どうしたんだろう。養子なのかしらん?不可解なまま見るのはなんだか気が引ける。
それより、カツオが理不尽に叱られるのを見るのが辛い。身に詰まされる。何かやる度に裏目、裏目に出るカツオの進歩のなさは辛い。父親、波平はしばしばカツオの行為を頭から否定して、叱る。カツオが気の毒で見ていられない。
4コマ漫画の方は、全然問題ないんだけれど。
カツオも早く大人になって、処世術のようなものを身につけるべきなのか、それとも、理解のない親に負けず、カツオはカツオらしく生きてゆくべきなのか。
時代が流れない、サザエさんアニメ版。後半だけだが、娘と一緒にいろいろ考えながら見ている。
私と女房は、良く話をする方だと思う。
新婚の時期を過ぎ、夫婦それぞれが、仕事や育児や家事に追われることで、共通の話題が見つけにくくなり、夫婦の間で会話を交わす機会が減るというような話を聞くことがある。私は仕事で家を空けている時間が長い。女房も育児や家事で、生活に十分な余裕があるとは言い難いが、私たちは良く話をする。他の家庭のことは分からないが、私はそう思っている。
会話の内容は、家族の様子や、新聞、テレビ番組の話、仕事の話など、様々である。お互いに話題を提供したり、聞き役に廻ったりしている。
わたしの方からの話題提供は、結果的にボヤキになることが多い。
たとえば、
♪りょうりがにがてなわたしだけれど、パンでグラタン、じょうずに出来た!
などというコマーシャルを見て、「俺はこのCMが嫌いだ。嘆かわしいと思う。」
などと、ぼやくわけである。件のCMは、ストーリー展開は嘆かわしいとは思うが、音楽の使い方などはなかなか上手である。出来たてのグラタンを口に入れて、ヤケドしそうになっているところが見苦しい印象を受けるが。
北朝鮮の工作員が逮捕されたことで、安倍氏は、北朝鮮に調査を申し入れて云々、、、と発言しているのに、総理大臣は、捜査中のことなので、、、と、うやむや、まるで自分が捜査を受けている容疑者のような発言。「それはないだろう。重要そうな事件なのに、総理大臣とアベさん、意思の疎通が無いのかしら?何か行き当たりばったりで、いい加減なモンだなぁ。」
そういうボヤキのいくらかが、ゴタクのネタになる。ボヤキに必要に応じて資料を照らし合わせ、若干の考察を加えると、ゴタクが出来上がる。ゴタクの半分くらいは、女房との会話の中から生まれてくる。
ご存じない方は、大きなつららを見て、寒そうな気分になるかもしれない。
厳冬期の資料映像として、時々、大きなつららが出てきそうな気がする。
しかしながら、北海道に育った私にとって、つららというのは暖かさの象徴と言えるものである。
なぜならば、つららは屋根につもった雪が溶けて、雫となって流れると、それが凍って出来る。つまり、つららが出来るには、暖房が必要なのである。誰も住んでいない、雪に埋もれた空き家には、大きなつららは出来ない。
太いつららは冬の象徴としては分かりやすいが、私はつららを見ると、暖かい暖房を連想するのである。
もっとも、近頃の北海道の家はほとんどつららが出来ない。断熱がしっかりした家は、当然のことながら屋根の雪が溶けず、つららは出来にくい。加えて、近頃の家は平たい屋根が多い。屋根からの落雪は危険でもあるので、雪を落とさないように屋根を平たくして、積もった雪をヒーターで溶かして、排水溝から流してしまうらしい。
象徴的に扱われることが、実は逆の意味を持っていることは時々ある。
少々下品なプロレスで、灯油缶を凶器に使うのを見て、アレは却ってダメージは少ないのではあるまいか?と思う私。何か他にもありそう。
すぐに思いつくのはこの程度だけれど。
成人の日は無くても良いという気がするが、取りあえず、日曜日がいいと思う。
何も、わざわざ祭日にして国民みんなが休む必要など無いと感ずる。
年末年始にたっぷり休んで、またいきなり連休というのはどうかと思う。こうしょっちゅう月曜日が休みになっては、いろいろと差し障りもある。学校のカリキュラムを作るのも大変だ。一般企業でも、邪魔な連休なのではないだろうか。
関係ない人たちまでいちいち休む必要はない。どうしても祭日にというのなら、新成人だけ休みにしたらよい。
私にとって成人の日は、お年玉年賀はがきの抽選で切手シートが当たる日だった。
成人の日と敬老の日は日曜日と重ねてしまうべきだ。別に何の不都合もないだろう。勤労感謝の日も同じく。祭日が入るせいで、却って仕事を片付けるのにその他の日が忙しくなるようで、あほくさく感じる。
おやこニュースには、画像がかなり大量にある。ある、というか、なんと言ったらいいのだろう。画像が含まれる。こっちの方が良い感じかもしれない。コンテンツ、というくらいだから。
HTMLをなるべく正しい表現で記述しようと、私なりに努力しているところだけれども、画像データをどのようにマークアップしたらよいのか、悩む。分からないので適当にやっていることが何となく後ろめたく、そのうちに正しいマークアップの仕方が分かったときに大量のHTMLを改めて直す苦労を考えると嫌だなぁ。ということ。
正しくマークアップしましょう、というような解説を見ても、画像は<img>要素で、終了タグはありません、とか、インライン要素なので、直接<body>の下に書いてはいけません、というようなことが書いてある。
例えば、野嵜さんのサイトでは、やってはいけない例として、畫像の濫用、つまり画像データがサーバーに大きな負担を掛けることを、少々極端な例を引き合いにして挙げています。
神崎正英さんの解説の中にも、悪いHTMLの例として、一番最初に出てくるのは「無意味な画像の多用」です。代表格とまで云われています。
ここで云う「無意味な」というのは、閲覧する側にとって、という意味なのでしょう。作製する側である私は、それぞれの画像をそれなりの意味を込めて提示しているつもりで居るのです。見る側がそれを無意味と思うなら、そのページは見る必要がないと判断して二度と来てくれなくなるだけの話。いろいろな興味を持ってウェブ上を巡回している人たちの全ての興味に答えられるはずもなく、また、大多数の人が無意味と思う画像であったとしても、興味のない人にとって無意味なのは、画像そのものではなく、画像を含むウエブサイトそのものであろうと思うのです。
私がここで問題としていることは、正しいHTMLを主張する解説の多くは画像の使用について、むしろ否定的であり、画像をどのように扱ったらいいのかという現実的な回答を示していない場合が多いということです。
altを使って、代替情報を適切に示しましょう、ということくらい。
インライン要素であるから、<img>要素を直接記載してはいけない。それではどうしたらいいのか?<p>に入れるか、<div>で括るのか。table要素にsummaryやらthなどが用意されているにもかかわらず、図を表示するのに、表題やレジェンドをマークアップする手段が無い(?)というのは、インターネットの起源が、学術論文の検索・参照であることを考えると、おかしいのではないか、という気がする。
単に、インライン要素である<img>をブロック要素に含めるのに、<p>で括ってよいのかどうか、というだけで、とある質問掲示板では喧々囂々の論議があったことをみると、画像の表示というのは、HTMLにとって欠陥の一つではないかという気がする。
多分、つづく
補足
> 例えば、野嵜さんのサイトでは、やってはいけない例として、畫像の濫用、つまり画像データがサーバーに大きな負担を掛けることを、少々極端な例を引き合いにして挙げています。
この記事は、
http:/members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/knowledge/Web.html
最初の「派手好き」というセクションの2番目に出てくるものです。
> 神崎正英さんの解説の中にも、悪いHTMLの例として、一番最初に出てくるのは「無意味な画像の多用」です。代表格とまで云われています。
こちらは、「ごく簡単なHTMLの説明」のなかの、「よいHTML、悪いHTML」というページに出てくるものです
http:/www.kanzaki.com/docs/html/htminfo22.html#s1
> 単に、インライン要素である<img>をブロック要素に含めるのに、<p>で括ってよいのかどうか、というだけで、とある質問掲示板では喧々囂々の論議があったことをみると、画像の表示というのは、HTMLにとって欠陥の一つではないかという気がする。
http:/www.ybi.co.jp/koike/qa1000/qa1178.htm
http:/www.ybi.co.jp/koike/qa1000/qa1191.htm
画像の扱いにあまり明確なルールが無い様に感じるのは、一つには、初期には画像が表示できなかったことがあるのかもしれない。ルールが作られ始めた時点で画像の表示を前提としていなかったということなのだろう。
もう一つ、ウエブに画像が必要かどうか?もちろん、視力の不自由な人には画像自体があまり意味をなさない。データのやりとりを考えると、ファイルサイズが大きな画像を表示させること自体に否定的な考え方があってもおかしくはない。
しかしながら、現に画像の表示は可能であり、画像が表示されることを前提としたサイトも多い。図鑑サイトや写真そのものを見せるためのサイトなどである。
さらに、写真は二次元的な大きさを持つから、行のなかに埋め込むと、レイアウトの問題が出てくる。
おやこニュースでは、原則的に画像とキャプションを個別に<p>で括り、二つの<p>
を<div>でくくって一式にしている。スタイルシートのフロートで、<div>を単位にして、右か左に寄せる。
フロートをこういう目的で使って良いのかどうか、分からない。<img>を<p>の中に入れることにも色々な意見をお持ちの方が居るようである。私は特別な意見は無い。代わるものがないからそうしている。<fig>などという要素があってしかるべきという気がする。
<fig>
<figtitle>
<legend>
この三つが一式で画像の表示というようなルールがあっても良いのではないかという気がする。将来的には、<object>という要素に置き換わる、とのことであるが。
おやこニュースを例に、画像が役に立つのかどうかを検証してみようと思う。
サンプルは、2002年1月10日のダイアリである。
http:/www.oyakonews.com/aboutus/diary/010003/011003.html
このページには3枚の画像が添えてある。(背景画像も加えると4枚)画像なしで、テキストだけで表現しようとしてみる。
■2002年のニュース(3)
小学校に続き、幼稚園も三学期が始まりました。エリポンも元気に通っています。4人の中で、ただ一人熱を出さなかったエリポンです。予防注射の効果でしょうか。
さて、このごろのエリポンのお気に入りのポーズがあります。両手を広げて、手のひらを下に向けます。その格好で、「オジサーン」と叫ぶのです。
実は、これはケーブルテレビの番組表の広告にある、プロレスラーの写真をまねているのです。
エリポンはケーブルテレビのトムとジェリーがお気に入り。番組表の中に、トムとジェリーの小さな記事があるのに気がついたので、このごろよく番組表を見ています。この中の一番目立つページに、プロレスラーがポーズを撮る写真があります。ナゼか気に入っているようです。
・・・という感じでしょうか。
まぁ、少なくとも、画像の提示は、私の文章表現力の拙さを補うと言う意味では大きな役に立っているような気はするのですが、いかがでしょう?
おかあさんといっしょ、週末にやっている分(NHK教育)、ニャンチュウくん。
「おねえすゎぁーん」
「おねえさん」と、普通に言えないのか?
カウントダウンTV(TBS系深夜)のナレーター。
普通に、普通にしゃべるってわけにはいかんのかなぁ。
プロジェクトX(NHK総合)の田口トモロウさん、普通に、普通にやって欲しいなぁ。アレが良いという人が多いのか。
珍プレーのみのもんた氏(フジ系)、何処が良いのか私にはさっぱり分からない。
民放テレビニュース、ニュース特集のナレーターアナウンサー諸氏。妙に深刻そうな声で読むのは若干反則気味だと思う。
朝鮮中央テレビのアナウンサーさん。
気合い入れすぎだよ。普通に、普通に読んだ方が、ぼくは良いと思うなぁ。
ペルシャ湾岸の動向が気になる。
いったい、大量破壊兵器とは、何なのか?
アメリカは何を恐れているのか?
米国は侵略ではなく、解放だ。などと言っている。何から何を解放しようというのか?多くのイラク国民がそれを望んでいるのだろうか?
目的の正当性はともかく、武力をもって主権国家を脅迫することに、私は強い嫌悪感を覚える。彼らが使おうとしている、巡航ミサイルや、戦闘爆撃機は大量破壊兵器とは言えないのか?武力による先制攻撃が国連の名の下に行われるとしたら、きわめて悪い前例を残すことになるのでは無かろうか。
テロリズムへの対策として、テロ組織を支援する国家に制裁を加える、ということであれば、フセインがテロ組織を国家として支援しているという明白な証拠が必要だろう。
主義、主張の異なる国に対して、侵略的軍事行動に対する報復以外の目的で、武力行使を行なうという、ブッシュ氏の度胸の良さに、私はついていけない。彼の片棒を担がされるのはごめんだ。
平和的な解決を目指す、の、ひとことがなぜ言えないのか。
米国の誇る、ピンポイント大量破壊兵器の下で、多くのイラク国民が傷つくだろう。それがフセインの独裁が原因だというのは、詭弁であり、アメリカの未来に新たな傷跡を残すことになるだろう。