我が輩は猫である、を読んでいる。ずいぶん前から、実は、中学生の頃から読み始め、かれこれ30年近くになろうとしているが、私の中ではまだ、猫は死んでいない。昨年バイクの盗難にあって、電車通勤した頃、改めて文庫本を開き、そのしおりが挟まっていたところから、今回読み始めたのである。
このごろ、こうやって自分で色々と書く機会が増え、次は何をどう書こうかと、漠然と考える機会が増えた。
今回初めて、ようやく、気が付いた。
これは小説などというものではなく、漱石のゴタク、いや、そのようなたとえ方は無礼千万。漱石のエッセイ集であるのだということ。
この「小説」にはほとんどストーリーというものがない。
猫の視点を借りて、教師という立場の偏屈な男を観察し、嘲笑し、時に同情する。教師はおそらく漱石自身であり、その偏屈というオブラートに包んだ痛烈な社会批判。天才の筆は留まるところを知らず。
多分今回も猫は死なないだろう。と思う。
先刻からこの体たらくを目撃していた主人は、一言も云わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、このときは既に楊枝を使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶対的放任主義を執る積もりと見える。今に三人が海老茶式部か鼠式部かになって、三人とも申し合わせた様に情夫をこしらえて出奔しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。然し今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先に廻って馬の眼玉を抜くことと、虚勢を張って人をおどかすことと、鎌をかけて人を陥れる事より他に何も知らない様だ。中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面して然る可きのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手というのではない。ごろつき手というのである。
-----(中略)----
こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。
見ず知らずの人の為に眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深い、思いやりのある動物であるとは甚だ受け取りにくい。只世の中に生まれてきた賦税として、時々交際のために涙を流してみたり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わば、胡魔化し性表情で、実を云うと大分骨が折れる芸術である。この胡魔化しをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試してみればすぐ分かる。この点に於いて、主人は寧ろ拙な部類に属すると云ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。
(中略)
諸君は冷淡だからといって、決して主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと力めないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い被ったと云わなければならない。
デジカメを買いました。買ったら使うと思っていたけれど、、、
カメラではないのねこれは。デジカメであって、カメラではない。
近頃のデジタル化技術は素晴らしい進歩を遂げていると思う。故グレングールド氏は、デジタル録音の技術に驚嘆し、全ての演奏をデジタルで録音し直そうと思ったそうな。それもかなわず、彼は唯一、ゴールドベルク変奏曲一枚をアルミニウム膜に刻みつけたのみで帰らぬ人となってしまったが。
さて、デジカメをどう捉えるべきか。単能コンピュータである。CCDセンサに捉えた光情報を分析し、ファイルにして保存する。
私は目に映る情景を記録し、表現する道具、カメラとして使いたいと思っていた。そういう要求からすると、デジタルカメラは普通の一眼レフにとうてい敵わない。
全てが電気的に処理されるところが私にはまどろっこしい。ズーミングくらいは手動でいいではないかと思う。しかし、おそらくズーミング自体がオートフォーカス機構か、CCDセンサの何らかのコントロールに組み込まれているのだろう。例えば、人混みが途切れたチャンスを狙って、何かを撮影しようとしたときに、デジカメではほとんど偶然に期待するしかない。シャッターボタンを押して、CCDのシグナルをキャプチャーするのに、いくらかのタイムラグがある。液晶画面を見ながらとなると、さらに、現在の映像が液晶に表示されるまでのタイムラグが加算される。デジカメにはシャッターチャンスという言葉は無縁である。並んでもらった記念撮影や、静物、風景などなら大丈夫だろう。しかし、動きのあるものを撮影するのは現状ではかなりの偶然に期待するしかない。
技術的には可能であると思う。ある程度のバッファメモリを装備し、数秒間の画像を0.1秒間隔くらいで、そこに貯めるようにしておけばよいのだ。そして、シャッタボタンを押した瞬間に一番近い画像をバッファメモリから呼び出すようにしたらよい。
おし、と、思ってしゃったを押して、デジカメから電子音が返ってくる間に、こどもは横を向くし、蝶は飛び去ってしまう。被写体の前を通行人が横切る。
あまりにお粗末な道具である。
もう一つの問題は、バッテリの寿命である。メモリ一枚(128MB)を撮りきるのに全く足りない。常時バッテリの残量を気にしなくてはならない。撮影時は余りこういったことを気にしたくないものである。使い始めてすぐはこれがとても気になった。ちょっとなれると、予備バッテリ持参が当然のことになって余り気にならなくなったが。
まぁ、慣れで解決する部分も多いだろう。デジカメ以外を使ったことが無い人にしてみれば、どうということはないのかもしれない。
記録を現像し、スキャナでキャプチャーするところまで考えると、デジカメの優位性は際だつ。画像の鮮明さも、下手なフィルムスキャナ画像を越えている。
私のデジカメはある程度のマニュアル操作が可能である。フォーカスもマニュアルで合わせることが出来る。しかしながら、それを確認する手だては、小さな液晶画面のみである。液晶はバッテリを喰うし、正確にピントを合わせるには全く不十分な代物だ。
デジカメ的には、数枚撮って、一番ピントがシャープなものを使うということなのだろう。あとは、画像を取り込み、選別し整理するソフトの使い勝手で、デジカメの評価はどうとでもなる。
私はデジカメ画像をプリントするつもりは全くないが、パソコンを持っていない人に配るような時に、デジカメのコストや手間はどうなのだろう?
のんびり、まったり、
つぅことです
職場の女性が免許を取ったら、新型マーチを買う積もりだという。実は免許はまだだが、車はもう買ったらしい。
どうしてマーチなのか、もちろん、新型、良い車に違いない。可愛いからだそうだ。いくらか、意見は分かれるだろう。
私はそんなに可愛い車とは思わない。その前に、車が可愛い必要はなにもないと思っているから、車が可愛いかどうか、論ずる資格を私は持っていないのだろう。しかし、周りを見渡すと、確かに、他に可愛い車は、、、ほとんどない。選択の余地がないのだ。
マーチが出る前は、トヨタヴィッツのクロームメッキごてごて仕様が欲しかったらしい。理由は、可愛いから。
私はヴィッツはまだマシと思うが、あの手の、メッキ部品ごてごて、丸ヘッドライトの車を見ると、嘆かわしい気分になる。
要は、ミニのような車ということだ。しかし、今の競争社会、車会社はきわめてギリギリの競争に晒され、古い車は次々とラインアップから外れ、とにかく、効率が全てといっていい車作りがなされる。それはそれで、機能美を感じるものなのだが、あの追加メッキ部品ごてごてヴァージョンは、勘弁して欲しい。最新のトレンドを取り入れ、妥協の無いフォルムを見せる、新しい車のなかで、かなりみっともないと思うからだ。
続く
実はこんな話をしようとしているのではない。
ハイブリッドカーの話である。
エライ政治家の方の間で、エスティマのハイブリッドカーが流行っているそうだ。
環境に配慮してということなのだろうか?あるいは、ガソリン代も国庫だから、税金の節約と思っているのか。
だいたい、車の燃費向上は正義である。化石燃料の節約、エネルギーの効率化、結果、地球環境の悪化はいくらか減速される。
燃費向上の本来は、内燃機関の効率化と、車体のフリクションの低下、慣性重量の低減、そして、道路環境の改善に依るべきものだ。
ハイブリッドカーというものは、コントロール技術による燃費改善策で、姑息な手法である。代わる技術が無いので仕方なくやっている。
結局、ハイブリッドカーは余計なものを搭載せざるを得ない。余計なものとは、バッテリーと電気モーターである。
燃費向上のために、極限の軽量化を行う方向性とは全く逆であり、開発、製造のコストまで考慮した場合、果たして本当に効率の良い車であり得るのかどうか、少々疑問である。
エスティマハイブリッドの燃費がどれほどか知らない。
社民党議員がマスコミに追いかけられたとき、議員さんを運んでいた車は、トヨタプラッツだった。燃費だけなら多分エスティマよりがいいのではないだろうか。
ティッシュを新しく開けたときに、最初の何枚かが破れずにきれいに取り出せるような発明なんか、してくれると嬉しい。
アリラン祭
10万人のマスゲームと来た。
ドミノ倒しでギネスに挑戦、とか、そういうものを連想してしまった。みんなで調和のとれた動き、寸分狂わない、それはそれは見事だろう。その場で見ると、きっと感動するだろう。しかし、私は好きじゃない。
詰まるところ、「10万画素の液晶コンピューターパネル」という、隠し芸みたいなものか。
ペンキ
某大学の偉い先生の車に、カラスがフンを落とした。先生は車に白いペンキを掛けられた、と思って、何か破壊工作の対象になるような被害妄想的なところがあったかどうか、それは分からないが、犯人探し。カラスとは思わず、新入生を一人、合格取り消しにしたそうな。
嘘のようなホントの話し。何にせよ冤罪。もし、本当のペンキだったとしても、いい加減な犯人探し、憶測で罪を着せてしまったというわけ。
車が汚れたくらいで、何だって言うんだよ。
ちょっと気分の滅入るニュースが、このごろ多い。ちょっと、というのは、私の口癖で、実際はかなり滅入っている。
保険金目当てで、友人の別居中の夫を殺害、その友人を共犯に仕立て上げ、保険金を恐喝したとかいう事件。元看護婦だそうで、、、、
看護婦をしている友人も居るから、複雑な気持ち。このごろの、気分の滅入る事件に、看護婦(士)が出てくる頻度が高いような気がする。人の死を見届ける仕事であるわけで、命の重さをいくらか誤解してしまう人が居るのかもしれない。ネットのニュースによると、睡眠薬入りのカレーを食べさせたあと、胃管でウィスキーを流し込むという手口。死ぬかもしれないなぁ。しかも、急性アルコール中毒だからねぇ、、、職業として、体得した技術、つまり、胃に管を入れ、液体を流し込む、を、犯行に応用したところが、きわめて特異である。税理士の脱税指南、政治家の汚職、看板職人の贋作作り、女子校教諭の破廉恥行為にも似て、やはり非なる、私にとっての衝撃度はかなり高い。
完全犯罪とかいうが、医師と看護士の知恵比べであろう。ころりと騙された医師を責める積もりはないが、
よくよく考えれば、中年の男性が、ひとりで酒を飲んで急性アルコール中毒で死亡、、、という状況自体が相当不自然である。誰かに無理矢理飲まされたのでなければ、死ぬほどは飲めないだろうし。
被害者は救急搬送されたはずで、通報者は看護婦である。普通に考えれば急性アルコール中毒で死亡するはずはない。また、適切な搬送と救急処置をすれば、ウイスキーボトル一本なら救命できそうである。つまりは、意図的に搬送を遅らせる様な作為があったということだろう。救急の現場でこれらの不自然な状況に気が付くのは、医師の職務の一部ではないか。中毒事故の治療は特に中毒に至る過程を理解することが重要で、そのためには付き添いの家族に詳しい状況の説明を求めるのは必須のことであろう。今後、このような事件の再発を防ぐ意味でも、診察する医者は事態を冷静に判断し、不自然と感じたら適切に対処する必要があるだろう。
医師が不自然さに気付いていれば、検死の対象になるはず。そうすれば血液中の睡眠剤が検出されたのではなかろうか。
まぁ、なんといっても、借金のカタ(というのはウソ)に、女房に殺される羽目になった亭主が哀れ。そして騙されて亭主を殺す片棒を担いだ元看護婦もしかり。
殺人教唆による保険金ビジネスのネタにされる夫、、、言葉を失う。
そして、医者よ、あなたの診断だけが死因ではない。臨終に至るストーリーを感じ、推理せよ。
ビジネスの輩になめられてはいけない
選挙に何度も立候補して、一度も当選したことのない候補者を新人候補というのはおかしいね。
複数回落選候補とか、何か別の言い方考えた方がいいと思う。
HP管理人です。
色々なことを自分のHPに載せますが、たまに困ることもあります。
検索エンジンの話しです。まぁ、ウェブに載せる以上、誰かがたまたま見てしまうことはある。出来れば職場のボスには見られたくないとか、そういうことは誰しもあるとは思います。
まずいと思ったら削除するわけで、時に感情にまかせて書いてしまったことや、明らかな事実誤認に基づくことは、訂正するか、削除しなくてはなりません。
さて、わたしは普段、ヤフーをよく使っています。
Googleという検索エンジンには、キャッシュというものがあります。これはHP管理人からすると、大変な困りものです。
どこかのHPで、何かのキーワードに適合するページを、恐らくGoogleのサーバーにダウンロードして、貯めてあるのです。したがって、自分が削除したページがキャッシュとして残っていて、閲覧できてしまったりするのです。
こういう行為、つまり、HPを勝手にキャッシュに残して、不特定多数に閲覧できる状態にすることは、著作権か何かを侵害しているような気がする。
大変迷惑な、仕組みであります。
ジローラモ、イタリア人のタレント、と言っていいんだろうか?NHKのイタリア語講座のみならず、色々な番組、サッカー関係のコメンティターのような立場で見かける。
今度は、ひげ剃りのCMだ。ご覧になっただろうか?
私にも髭は生える。以前はずいぶん薄かったのだが、このごろは人並みになってきた。髭の剃り方を生まれてこの方、誰にも教わっていない。あんまりよく分からないが、適当にやっている。まぁ、それで十分事足りるし、ほとんどの人たちは自己流のひげ剃りをやっているのだろう。私はいつも替え刃式のT字型のひげ剃りを使って、風呂の中で石けんを泡立てて剃っている。鏡が無いので、手触りで剃る。鏡くらい欲しいのだけれども。
昔は替え刃を毎回替えていたが、それはどうも経済的ではない様なので、最近は数回使って、もうそろそろと思ったらもう一度使ってから替えることにしている。普通はどうなんでしょうか?
ジローラモは髭が濃い。その髭をバシャっとそり落とすCMである。彼は妙にはしゃぎながら、もじゃもじゃの胸毛や、二の腕の体毛まで一気にそり落とす。ジローラモは気持ちよさそうにやるが、見ている側にとっては、気持ち悪い。ひげ剃りのCMは、ジローラモに限らず、洗面所で剃刀を当てようとしたら、髭がもぞもぞと逃げ出す(カイ印)やら、レスラーが、「キレテナイヨ」というやつ(シック)など、私にしたら、悲鳴を上げたくなるような気味の悪いCMが多い。まぁ女性タレントを起用するわけにもいかないだろうし、仕方がないのかもしれない。
中でも一番気味悪かったのは、通販の脱毛クリームのCM.塗ってしばらく置いてタオルで拭き取ると、臑毛か、腕の体毛だかが、クリームと一緒にはがれ落ち、すべすべの肌が露出する。書いてしまうと大したことが無くて、がっくり来るが、映像を見せられると気持ち悪いことこの上なかった。
ジローラモが自慢の胸毛をばっさりやったとは思えず、多分CGだろうと思う。女房は信じて悲鳴を上げていた。
二コレットの宣伝もきらいだ。
でも旦那に食べさせてタバコをやめさせたいけど。
衣類に臭いがついてくさいもん。
何でもかんでも短く縮めるのは日本人の悪い癖。縮められるのが日本語の長所かもしれませんが。
原発は原子力発電所。横マは横浜Fマリノス、ミスドはミスタードーナツ、マクドはマクドナルドハンバーガー、サンチカは三宮地下街です。
さて、デジカメとは、デジタルカメラのことです。
あれば使うと、以前から思っていました。購入に踏み切れなかった理由は、お金に余裕がなかったこと。そして、半年か、4か月に一度くらい新型になって、その度に性能向上、価格下降の繰り返し。カタログに最高の性能、を謳っていても、半年後には、半額で同等のものが手に入るようになるのが目に見えていた。立派な一眼レフを所有していて、デジタルカメラが果たして必要なものか?という自分の問いに対する答えが見つからなかった。そういうことです。
こういったデジタル機器全般に言えることですが、値段の中で電子基板のコストというものがどれくらいを占めるのか、私のような素人には皆目見当が付きません。電子部品は、量産によって製造コストがいくらでも安くなりそうですから、例えば5万円のデジタルカメラは本当はどのくらい価値があるものなのか、私にはさっぱり分からないのです。
それにも関わらず、買う気がむくむくと起こって、あっという間に手に入れてしまった陰には、今まで使っていた小さなカメラが壊れ、それに代わるものが必要になったこと。いくらかの臨時収入が見込めたこと。そしてデジタルカメラもある程度の水準に達して、まぁ、これを買っておけば当分は大丈夫かな、と思わせるような(自分で勝手に思ったのですが)魅力的な新製品を見つけたことです。結局は、欲しいと思ってしまったら、ぶん殴られて鼻血でも出さないことには収まらない、私の性分のおかげです。
手に入れたのはミノルタDIMAGE F−100というやつ。昨日発売という、出たてホヤホヤ。紺色の横長アルミニウムボディ。3倍ズーム、400メガピクセル。新しいオートフォーカス機構がウリらしいです。ヨドバシ梅田店で、20%割引。更にキャンペーンクーポンで期間限定2000円引き。15%ポイント還元。現金が足りず、クレジットカードで払ったのでポイントは13%でしたが。その分で、128MBのメディアを買うことが出来ました。
さっそく試しに使ってみましたが、デジタルカメラとは、ずいぶん妙な代物です。
購入金額のくだりいいわけがましいな〜!
デジカメ購入は家族全員の多数決までとって買ったんだからたくさん使ってあげようね。
雑務が沢山あって、忙しかった。
鼻風邪を引いてしまい、少々調子が悪い。
なかなかねぇ、うまく行きませんね
私もバイク乗りのひとりである。いいたいことは色々ある。
免許制度について何とかして欲しい。原付免許を廃止していただきたいのである。あれほど交通の現状に照らして全く適合しないルールも珍しい。今や化石の部類である。
だいたい、原動機付き自転車という名称じたいが、大昔、宗一郎が女房の為に進駐軍の払い下げた小型エンジンを自転車に取り付け、湯たんぽをガソリンタンク代わりに細工した時代の遺物である。今の世の中、高々50立方センチメートルの排気量から、7馬力以上の出力を絞り出し、自主規制値毎時60キロをはるかに超えるスピードで、それに見合う上等なサスペンション、制動システムを備えたマシンに、道路の左端を時速30キロで走れというルール自体が、全くおかしい。今世間を走っている原付バイクは、おそらく当時のグランプリマシン並の性能を持っているだろう。
自動二輪の免許を持っていたとしても、如何に原付バイクがスーパーな性能を持っていたとしても、原付である以上、最高速度30キロで路肩を走らなければならない。交差点は二段階右折、だったり、二段階右折禁止であったり。詰まらない自主規制等やめて、持っている免許に応じて走ることが出来るようにしたらいいのである。
原付免許を他に比べて簡単にするということもどうかと思う。宗一郎の妻の時代ならともかく、現在の交通環境で、交通の一部となる以上、他の免許と同等の学科試験を課すことは当然であるし、技能検定も必要なのではあるまいか。
きょうびの原付は本当に凄いのだ。適当な交通の流れに乗る、あるいは流れをリードするのに全く不足はない。30キロで走るのと、交通の流れに乗って走るのと、どちらが安全であるかは、全く議論の余地はない。自動二輪の免許を持っているライダーの中には、原付バイクを51CCで小型二輪として登録していると聞く。全く狂っている。下らないルールは改めて欲しい。
免許制度改正は時間がかかるかもしれないが、免許に応じた交通ルールの適応ならすぐにでも出来るだろう。
これはもう少し続く・・・・
私の自動二輪免許は中型限定だった。
自動二輪免許は、大昔には自動車免許のおまけに付いてきたことがあったそうだ。
ある時期に、排気量別に小型(125ccまで)、中型(400ccまで)、大型(401cc以上)と分かれた。暴走族対策だという話を聞いたことがある。暴走族対策としての免許区分が効果があったかどうかはよく分からない。
その当時は、大型免許を取るのは至難の業で、よほどの熱意がなければ取れないという状況。私が免許を取った頃も、教習所で取れるのは中型まで。大型自動二輪免許は試験場に直接行って取らねばならなかった。暴走族の方が、果たして免許を取りに通ったかどうかは分からない。
大型自動二輪免許取得は、限定解除と呼ばれていた。つまり、自動二輪免許は一種類で、排気量別の免許条件が付くという形で、中型限定という条件を解除するという仕組み。従って、私が大型二輪を運転しても、無免許運転ではなく、免許の条件違反ということになる。
はずだったのだが、いつの間にか、私の自動二輪免許は「中型二輪免許」に変わっていた、、、らしい。
ちょっと前に、多分道路交通法が変わり、二輪免許が区分された。従来困難だった限定解除が、大型二輪免許に取って代わり、教習所で取れるようになったわけ。新たに免許を取ろうという人は、はなから大型二輪免許を取るだろう。中型二輪は売れなくなり、バイクの市場も様変わりした。
様変わりしたのは知っていたが、自分の免許が自動二輪免許から中型二輪免許に変えられていたことは知らなかった。
友人に言われて、まじまじと自分の免許証を見直すと、普通自動二輪、ところが中型に限るという一筆が無くなっている。友人の免許は大型自動二輪。普通自動二輪というのが、中型っていうものなのかどうか良くわかんないけど、彼が言うには、免許条件の限定ではなく、免許そのものが変わったと言うことだ。本人が知らない間に取ったはずの免許が変わってしまっているのは変な話しだし、条件違反と無免許では大変な違い。いつの間にか既得権が侵害されたような気分。
まぁ、何にせよ、中型免許ではあったんだけども。
職場の同僚が、今、仮免で路上教習中。もう車を注文しているそうだ。
車だけじゃないけれど、何かを欲しいと思い出したら、もう止まらない。カーディラーにとって、こういうお客さんはとても美味しい。決してはしたがねとは言えない金額。彼女にとって、余っているお金の筈はない。
それでも一度欲しいと思わされると、もう止まらないのだ。誰かに鼻血が出るほど殴られれば目が覚めるかもしれないが、誰もそんなことはしてくれないだろうし、目が覚めたからといって彼女が幸せになる保証もない。
我が国は中古車の値段が妙に安い。私的には中古をおすすめする。新車の方がいいに決まっているが、払うお金、その金額に見合うほど自分の生活が充実するかどうか。幸せになるかどうか。車というのは結構大きな荷物である。引っ越すにしても駐車場を確保しなければならないし、車庫代、ガソリン代、税金、などなど、持っているだけでかなりの負担を強いられる。それによって、毎日の買い物が楽になったり、通勤時間が節約できたり、何らかの見返りは考える必要があるだろう。
あるのかなぁ、、まぁ、なんかあるんでしょう。
カーディラーという人種はこの世でもっとも信用ならない。と、アドバイスしてくれたのは私のアメリカのボスである。もっと激しい言葉を使った。ここに書くのを少々はばかるくらい。アメリカは中古車の値段が高い。程度の悪い中古車をそこそこの値段で売りつけるのは腕の良いカーディラーの必要条件で、信用ならないというのはそういう点だと思う。確かにそういう人が多かった。
とにかく口が上手い。ハッタリ、口八丁。
とにかく、多くの場合、(私がそういう場面を何度か目撃した)車選びはムードなのだ。今回の彼女の選択は余り悪くない。新車で選ぶとしたら、多分最良の選択だろう。ムードに載せてしまえば、もはやユーザーはディラーの思うがママである。
車など、生活を便利にするための道具、と割り切っている私にとっては、もう少し慎重に選んだ方がいいと思うがなぁ、、、せめて中古でちょっと練習してから、、、と思ったんだけど。
でも、いいんだって。それは分かっているけれど、その車が欲しいんだそうだ。
オーケイよ。安全運転でね。