司馬遼太郎氏の小説、「最後の将軍」を久しぶりに読み返した。長女が小学校で日本史の勉強をしているところ。会話の中に、文明開化やら明治維新などという言葉が出てくる。学校で習う日本史の中で、全く影の薄い徳川幕府15代将軍。慶喜の人となり、そして、ペリー来航から明治維新に掛けての日本の状況の概要を理解するために、この小説は最適と思う。
「攘夷」というマジックワードに翻弄された庶民と将軍。「カイカク」「ユーセーミンエイカ」の先日と、ちょっと似た感じがした。
オリンピック中継を見ていて、道具の変化に驚いた。アルペン競技のスキーが随分短くなっていた。
学生の頃、競技スキー部に籍を置いていた。私が取り組んだのはノルディック種目だが、アルペンチームのスキーを身近に見ていた。
オリンピック中継を見ていて、道具の変化に驚いた。アルペン競技のスキーが随分短くなっていた。
学生の頃、競技スキー部に籍を置いていた。私が取り組んだのはノルディック種目だが、アルペンチームのスキーを身近に見ていた。
こういう表現が嫌いです。私だけでしょうか。
あの建築士がいつも被っている妙な帽子をいつか誰かが引っぱがすと思うのは、マンションの売り主さんはまるでドリフの寸劇のカツラのようだと思うのは、「調子が悪いから」で国会の呼び出しをシカトするなんて随分タフだと思うのは、私だけでしょうか。
年収の何倍も借金してやっと手に入れたマイホームの人もいれば、そうでない人もいるだろうと思うのは私だけでしょうか。私の所にもマンション販売を勧誘する電話が時々掛かってきますが、その人達はやけになれなれしくて、図々しくて、ウンザリさせられます。下らないワンルームマンションを紹介してくれます。不動産投資のお誘いか、というと、そうではなく、電話の向こうの声の主は、素晴らしい物件の説明をひとしきりして、「お払いの税金は高いですよね」と決めつけてくる。借金をしてマンションを買って、それを貸して家賃収入を得る、つまり不動産賃貸業のお誘いかというと、それでもない。要するに、借金をしませんか?いまマンションを買うために借金をすると、税金の控除が受けられます。脱税ではなく節税だというわけです。彼の話は必ずしもウソではないのでしょう。景気対策かも知れませんが、住宅を買う為に借金をすると税金の一部を控除されるらしいです。しかし、彼の主張する節税対策はおそらく減税の趣旨から外れています。
それに、私は納税を苦と思っていません。頭から、私が高い税金に腹を立てていると決めてかかる彼のしゃべり方は不快です。私が節税して税収が落ち込めば,別の理由を付けて増税されるだけのことです。また、この減税策が節税という名の脱税やちんけなマンションを売り抜くための売り文句に使われ、本来の目的を果たしていないように思います。いずれ政策は見直され、こういった甘い話はチャラにされ、場合によっては「脱税行為」として処罰の対象になるかも知れません。
まぁ、住宅を販売する人の中には、「おいしい話には乗らなければ損ですよ」というような売り込み方をする人がいると思うのは私だけでしょうか。
立ち退きを迫られている住民の皆さんは、本当に気の毒です。私はいくらかの想像力を働かせて、もし自分がその立場に立たされたら、と思うのです。
呆然とすることでしょう。騙されたのです。口の上手い不動産やでした。印鑑を押したときのことを悔やむかも知れません。目の前にある建物が、素晴らしいものか食わせ物か、そのようなことが判断できるはずもありません。誰かが言うことを信ずるしかなかったのです。確信が持てないままに契約を交わした迂闊さを悔いるのです。
不安でたまらない。住む場所を失い、更に手痛い出費が見込まれる。不動産やが保証してくれる見込みもない。
驚いたことに、政府が援助してくれることになった。正確には、自治体なのか。とりあえず、売り主に買い戻してもらうのが筋だと思っていた。おそらく、あの調子の良いおっさんにその能力はないだろうと、半ば諦めていたのだ。能力があるのか無いのか、分からないうちに、援助されることになり、ほっとした。その時まで同情が集まっていた。気の毒だから。なにやら良くわからないうちに、所有者達に援助の手が差し伸べられることになった。筋が違う。違うだろう。お金を返せなくて困っているのは不動産やの方なのだ。
ここでまた、私は想像力を働かせる。もし私が折角手に入れてローンを払い始めた新居を捨てなくてはならなくなり、その損害の穴埋めをどうしたらよいか途方に暮れている一市民の立場で、突然政府が助けてあげましょう、と言いだしたとしたら。
本当に助かります。ありがとうございます、と、素直に云えるでしょうか。冷静になると、なんだかいわれのない施しを受けた気分。どうして私を助けてくれるの?かわいそうだから?不動産やとの交渉が何もまとまっていないうちから、かわいそうな一般市民を助ける振りして、実は不動産やを助けている訳で。筋が通らないと思って、支援を断ろうと思うのは、私だけではないでしょう。
結局、ヤギだろうが、ヤケだろうが、そのようなことは私には何も関係が無く、メディアには見出しにヤギと書くかヤケと書くかが結構重要だったりするはずだけど、あの方の祖父が本当に日本人でなのかどうか、その方が余程重要な点で、彼は日系人というノスタルジーから出稼ぎ先に日本を選んだのか、はたまた、入国管理の緩い我が国は世界の犯罪者にサンクチュアリを提供しているのか。
あるいは、手抜き設計、手抜き工事、色々なやり方で不当なコストダウンが図れそうなわけで、そういった不誠実なマンションを供給が不動産屋にどれほどの利益をもたらすのか。
そういうことに関する報道が十分でなく、情報が伝わっていないことに不満をもつのは、私だけではないでしょう。
皆さんが同じようなことを考えているんだろうなぁ、と思うことを、あらためてこういうところに書いても仕方がないんです。
でも、世の中には大勢の人がいて、いろんな意見を持っているわけで、私だけの筈はない。極めて独創的な考えだと思ったところで、他にもそういうことを考える人は沢山いるだろうと思うのが謙虚というものでしょう。いっぽうで、私だけでしょうか!と言う問いかけが、そんなことはない、みんなもキミと同じことを考えているよ、と言うレスポンスを期待するものであるなら、ンなわけ無いよ、と云う自明の問いかけで、こいつは無意味です。
ことのほか、ネットには検索エンジンというものがあって、似たような意見の人が集まってくる傾向があるんです。私だけのわけはないのです。
ボケ・突っ込みの「ボケ」の要素として、手痛いミスをしでかしたときに、使うことは出来るでしょう。おれだけかよ!おまえくらいだろうな。
私だけでしょうか、と云う問いかけに見える作者の意図は、著者が世の中の大勢をどう捉えているか。一般的に信じられていると著者が考えているジェネラルが、実は正しくないと著者が指摘する意見表明。読者に対して考え直せ、と提言している。
よその人が何をどう思っているかなど、想像するだけだし。読者の多様性を考えると、この表現は滑稽。私はとても気になる。多くの「私だけでしょうか」は単純に削除可能で、その方が表現がストレートになる。折角の文章を無駄な表現で薄める行為を、私は勿体ないと思う。つまり、刺激的な表現をカモフラージュするオブラートのつもりかも。
飯買いに行く前にさ、ちょっとパソコンで株見てたのよ。そしたら、何か、ひと株一円とか云うのがあって、あんまり安いからちょっとかってみようと思って昼飯代350円使って買ったわけよ。そしたら、それが例のやつでさ。掛ける91万円だから、おおよそ、ざっと、三億円。ドルならもっと凄かったのに。
でも、それって変じゃない。有り得ねぇよ。だってさ、おれは何にもしていないんだぜ。たまたま見つけただけでさ。そんなバカな話が通るわけ無いじゃない。だからさ、おれは返そうと思うのよ。どうして誰も、云わないの。そんなバカな話が通るわけ無いって。パソコンさんがOKするのがそんなに偉いのか?データベースに登録されればこっちのものって云うわけ?
子供が言うのよ。「ねぇ、おとうさん。私たちお金持ちになったの?」って。なってねぇよ。返すんだから。全部返すっていったら、喧嘩よ。女房と。別れるってよ。おれがバカだって言うんだよ。バカはどっちだ。もらういわれのない金をはいはいと受け取る方が余程バカだ。おれは要らねぇ。あぶく銭拾ってたらこっちがバカになる。
なんて話を考えるのは私だけでしょうか。
今年一年を象徴する漢字一文字は、「愛」なのだそうです。違和感。へぇ、何処がどう愛だったのか。
次々と、悲惨な事件が起こる。世相の所為にしてはいけない。昔を懐かしむのは馬鹿げている。5年前、10年前にも同じ問題を抱えていた。今の世の中もそれほど悪くないですよ。私は黙々と生きている。事件は起こりますが、去年も事件はあった。3年前にも、10年前にも。
インターネットがらみの事件が起こり、ケータイ電話が悪用される。便利なものですから、有効に活用しているのです。悪事にも活用可能。
10年後、15年後に何が起こるか。それに関して、私はいくらかの責任を負っている。私が育てている子供たちが、次世代の一部を担う。恐るべきことに、私は、人を信じるなと、子供たちに教えている。道ばたで苦しんでいる人を助けるなと教えている。身を守るためである。やむを得ないと思う。そして、子供たちが成長し、どのような世の中を作るかと思うと怖ろしい。
衝撃的なマスコミデビューから早一月。帽子の分け目を若干向かって左に移して建築士さんが国会に登場した。
AさんはBさんに唆されたという。Bさんはそのようなことを言っていないという。Cさん、Dさんも、自分が騙された側だと主張する。
アニャハさんが悪いのは分かって居るんだけれど、他のみんなが被害者の筈もなく、事件が起きたことは間違いないので、誰かがウソをついているか、勘違いしているか、忘れてしまっているか。ことによると、全員グルになってウソをついているのかもしれない。
一番いい加減な人、張本人の建築士さんの言うことが一番本当っぽいと思うのは私だけではないらしく、間違いなく騙された一方的な被害者のポンコツマンションの住人も、アニャハさんの言うことは信用できるといっていましたのが何とも。
ホンダが開発しているASIMOの新バージョンは走る。しかも、直線だけでなく、カーブやらジグザグやら。恐れ入ったが、空は飛べないらしい。まぁ、この程度のことで驚いていて駄目なのだろう。
確か、去年は時速3キロだった。今年は6キロとのこと。コンピュータの処理速度が上がると、色々なことが出来るようになるらしい。来年は時速10キロくらいになって、近い将来に高橋尚子さんや野口みずきさんなど、歴代オリンピックマラソンチャンピオンとエキシビジョンレースをやるくらいになることだろう。
私がフットボールを見始めた頃、カニンガムというQBの縦横無尽のプレーに痺れた。以来、私はフットボールの試合をテレビで楽しむようになり、フィラデルフィアを応援するようになった。昨年はスーパーボールに進出したが、今年はけが人が多く、余りよいシーズンではない。
先日見たシアトルとのマンデーナイトゲームは、歴史的な試合となった。
地元で大敗を喫した。為す術がない。前半で、35点差。後半はスタンドもガラガラとなり、吹雪の中試合は深夜過ぎに終了。42-0と云う点差は、その大半が攻撃からのターンオーバーでの失点によるもの。インターセプト4回。ファンブル2回。ゲームスタッツを見ると、ボールポゼッションはほぼイーブン。獲得ヤードもほとんど同じ。パス成功率など、攻撃に係わるデータはほぼ同じ。にもかかわらず、歴史的な大敗の理由は、シアトルのディフェンスだ。フィラデルフィアのディフェンスも良く耐えた。しかし、オフェンス側がシアトルのディフェンスに耐えきれなかった。
そういった歴史的なゲームを見て、つまり、数年、数十年後にこのがらがらのスタンドや、雪まみれになりながら、深夜過ぎまで試合を見ていたごく一部の熱心なファンなど、ことあるごとに取り上げられるだろうと思うから。
さて、相撲に似ているという話だ。土俵入りがあるわけではない。塩を撒くわけでもないのだが、立ち合いがある。フットボールでも、両チームがスクリーンイメージラインを挟んで向かい合う。待った、がある。オフサイドとか、フォルススタートという。ディフェンス・オフェンスのライン同士の激突は、まさしく相撲の動きである。元横綱の武蔵丸もフットボールの経験があるらしいが、彼の土俵でのみのこなしはフットボールを連想させた。そして、物言いがある。協議の結果を説明してくれる。相撲と似ている。
「忙しいから」は、言い訳になりません。忙しいに決まっています。プロならともかく、他に仕事があるから。
忙しくてヒマがないのではない。忙しくて余裕がないのです。言葉にすると微妙な違いだけれど、そういうことです。
「悪いことをする顔に見えますか?」と、云われると、見えます、とつっこまざるを得ない。そんなことを言うから、本当はいい人なのか、悪い人なのか、謎は深まるばかり。
そのヲヂマ社長が、ちょっと前に国営放送のインタビューに答えていた。私からマンションを買ってくれる人なんて居ませんよ。と、ちょっと寂しそう。マンション販売から手を引き、社名を変えて、耐震補強などを手がけるつもりとか云っていたが、どう受け止めて良いのか、視聴者を煙に巻くつもりだったわけではないと思うが、どうにも訳の分からない人だ。
しかし、この人は、多くの顧客の恨みを買っている。莫大な負債を抱えており、債権者に幾らかでも払わなければならない。まぁ、耐震補強が金になるならやったらよい。いっそのこと、アナハさんと組んで、大晦日にリンクに上がるというのはどうか。家元の場合より分かりやすいし、興味を持つ人も多いのではないか。視聴率の出来高払いで。頭を狙うと、堂々と宣言したら、かなりのお金になりそうだが。
女子アナと見出しにいれるだけで、週刊誌の数ページを埋めることが出来る時勢だ。ここでは男子アナのはなし。西沢さんのいにしえから、日本放送協会のアナウンサーは被ってはいけないことになっているのではないか。
伊藤氏も、畠山氏も、かなり薄くなってきている。これは客観的な事実だ。妻が指摘した。仕方がないのだ。ニュース原稿を誰が書くのか知らないが、アナウンサーは過酷な仕事をこなすロボットである。どんなに馬鹿げたニュースでも、読まなくてはならない。しかも一千万単位の市民注視のもと。
電車の運転手が、運転中に「アイチャン!」と叫んだのを不審に思った乗客が、などと、どのような顔で読むのだろうか、と思ったが、この事件はテレビショウで取り上げられなかったかもしれない。
アナウンサーがカツラを被ってはいけない、と、私は思う。この人はごまかそうとしている、と視聴者から見られるのは、彼らの仕事の上ではなはだ不都合だから。
たまに不機嫌そうな顔でニュースを読むくらいは、別に構わないが、不機嫌そうに読んでいる人は見たことがない。
これも先日。たまたま目にしたフジサンケイのニュースショウで、エキゾチックな顔立ちの女性アナウンサーと、特に目立たない普通のおじさんが二人で、「少年の凶悪事件と暴力的なテレビゲームには因果関係がない」ような話を、専門家の話とデータを交えて紹介していたが、これはインチキだ。
データというものは処理の仕方でいかようにも解釈可能だ。都合の悪い点を隠せば、黒いものがより黒いものよりはるかに白い、というような結論も出すことが出来る。
テレビ局が、ゲーム機業界を重要なスポンサーとしている以上、私はこのニュースを信じることは出来ない。せめて、功罪両方の立場に立つ専門家に、おのおのの説を主張させ、視聴者に判断させる位の配慮が必要だったはずだ。
先日の毎日新聞の一面に、美味しそうな輸入牛肉の写真が紹介されていて、これも何かいかがわしいとがあるのではないかと訝った。
垂れ流しニュースを間に受けるのは宜しくない。
年に二三回、自宅でプリンタを使う。職場では毎日のように使っている。
年賀状の印刷に使う。PM730Cという些か旧式の部類に属する、安価なプリンタを使っている。数年前にダイエーで購入した。印刷のクオリティはまぁまぁ。速度もそこそこ。しばらく放置していると、ノズルが詰まる。頻回のクリーニングが必要となるが、これは使い方の問題だろうと思う。
エプソンのユーティリティがなかなか使いやすい。
久しぶりにケーブルを繋いで使おうとしたところ、カラーインクの残量が少ない。ノズルのチェックも出来ない状況だった。近所の電気店にインクを買いに行った。
新しいインクカートリッジを取り付けて、果たしてまともに作動するかどうか、不安だった。夏休みに子供の自由研究のために使ったときは、ヘッドのクリーニングが十分でなかった。新しいカラーインク(5色)一個が1250円。二つセットで買った方が安上がりだ。
店頭には新しいプリンターの特売。1-2万円程度で手に入る。ちょっと悩む。しかし、PM730Cがまともに動作するかどうか、まずは確認しなくてはならない。結局、交換インク1250円を手に入れた。念のため、特売中の新型プリンタの交換インクの値段をみる。各色が独立したタンクになっている。足りなくなった色のタンクのみを交換する。各色が1000円ほど。一式で5000円を超える。引いた。ふざけているのか?
各色独立のタンクは元々C社が採用していた。足りなくなった色を交換するという経済性が売り言葉だが、一体式の方がランニングコストはかなり安いように思う。プリンタそのもののコストが下がった。技術的にも劇的な進歩がない。プリンタは儲からない。
1万円のプリンタを買って、5000円の交換インク。たかだか年賀状を印刷するだけの話。それに矛盾を感じないユーザーを当てにした商売。阿漕だと思う。自らの首を絞めることになるだろう。
国民的行事ということで、異存はない。NHKのスタッフに拘らず、らしさを出せる人を起用したらよい。そういった意味で、民放で活躍するスターアナウンサーの起用は良かったのではないか。
余り熱心にみていなかったので、みの氏の喋りを聞いた記憶がない。
今回、特に印象に残ったのは、氣志團のステージだ。彼らが音楽界、芸能界でどういう位置づけかよく知らない。誰に受けているのか、何を目指しているのかも良くわからないが、今回のステージ、僅か三分あまりの筈だが、には、大変な迫力を感じた。
森山親子のデュエットも良かった。森進一は本当に説得力のある歌手だ。倖田來未のノリも素晴らしかったが、それにしても三十年あまり前にその原作を作った永井豪の偉大さを思う。
出ていない人がいる。
下らない直前情報番組など止めて、番組そのものを朝から晩までやればよい。ジャンル分けして、会場も分けて、出場者を今の倍くらいにして。NHKホールからの中継に拘らずにやればよい。