おさんぽさんぽ、経由
http://hpbuilder.net/diary/?date=20040216
毎日新聞のサイトに紹介されている、”バリアフリーHP(ホームページ、ウエブサイトのこと:筆者注)開発”という話題。
ウエブサイト記述のための言語、HTMLは元来、誰にでも公平に情報を、、、と云うことが十分に考慮されているので、下手にいじるほど、ユニバーサルじゃなくなると思う。現に、そのページもウインドウズのエクスプローラのみが考慮され、それ以外のブラウザでは「恩恵」に与れない。
実際、そのバリアフリーほーむぺーじを見てみると、ウインドウズのエクスプローラを使っている人は、文字サイズを大きくしたり、背景を黒くしたり、子供向けと称してアイコンが動物になったり、と云うような画面の切り替えが出来る。と云うだけの話。
例えば、見出し部分は画像なので、サイズが大きく出来ない、とか、テーブルレイアウトなので、文字サイズを大きくするとレイアウト全体がおかしい感じがする、とか、選んだモードは多分クッキーで保存され、次も同じモードになる、というのは色々な人が使うパソコンでは、却って使いにくくなるとか、子供向けといっても、画像が可愛げになるだけで別段ルビを振ったりするわけではないので、これは子供を騙す手口みたいだと思ったりする。
そこにあるバリアフリーの仕組みは、この人たちにお金を払わなくても、例えばブラウザの文字サイズを調節したり、ユーザースタイルシートを使ったりすることで解決できるので、そういうブラウザの基本的な使い方を周知させる方がよほど役に立ったり、そういった便利な仕組みを享受できるような、無駄な飾りのないウエブサイトが増えることが、バリアフリーにとって、より有意義であることを宣伝する方が、下らないギミックを流行らせて却ってアクセッシビリティの低い世の中を作るよりマシではないかと思った。
おわかりと思います。というか、こんなことを不思議に思うこと自体、無知を晒している危険性もあるのですが。
一日、24時間を考えます。地球上に住む人から見て、太陽が真南にある瞬間から、次の日、太陽が真南に来るまでが正確に24時間です。
その間、地球は自転しながら公転しています。コマのように一周回りつつ、太陽の周りをおよそ365分の1周、回ります。ですから、24時間の間に、地球は 360度+約1度自転する、と云うことになり、自転周期(360度回るに要する時間)は24時間より若干(約4分)短い、と云うことになります。
月はおよそ27.3日で地球の周りを公転していますが、全く同じ周期で自転しています。従って月は常に同じ面をちきゅうに向けている為、地上から月の裏側を見ることは出来ません。月面にいると、見かけ上自転していないように感じるはずです。そこら辺がヒントになると思います。
ちょっと調べものをしていて、面白いことに気が付きました。
閏年、ご存じですよね。地球の公転周期、つまり太陽の周りを一回りするのに、おおよそ365日と6時間ほどかかるというお話。4年に一度、一日分余るので閏年になるわけです。
それでは問題。地球の自転周期は?
正確に、24時間。と思うあなたは不正解です。もし、正確に24時間で地球が自転しているとすると、半年後には正午に夜中を迎えることになります。ですから、地球の自転周期は、23時間と56分ほどなのです。
分かりますよね。
牛丼カウントダウン。
かなり昔に、吉野家の牛丼を一度だけ食べたことがある。随分昔の話で、店構えなどは今と余り変わっていないように思うが、なにやら殺伐とした雰囲気だった。
つゆでしめったご飯を掻き込むところが、大変下品な気がして、味を気にするどころではなかった。その後、米国でヨシノヤのビーフボウルを一度テイクアウトしたことがある。ロサンジェルスあたりではヨシノヤは十分に有名で、10年ほど前だが、ドジャースタジアム内にも店が出ていた。職場のインド人のご婦人は、ベニショウガが旨い、と、ヨシノヤを気に入っていた。その時私が食べたのは、テリヤキビーフボウルと云うメニューで、アメリカ人にとってテリヤキはあまからいものの総称である。
閑話休題。
牛肉輸入制限に伴う、牛丼販売停止がニュースになっていた。在庫限りのカウントダウンだったのだ。最後の牛丼を食する人をねらって、報道各社が吉野家店頭でカメラを構える、と云う、異様な光景が展開していた。
牛丼屋が牛丼を出さないのはおかしい、と云って、暴行事件を起こした顧客。確かに吉野家の看板には、「牛丼」と書いてある。カウントダウンをねらう記者たちより、その矛盾を鋭くついた、暴行事件の容疑者の方が、よほどまともなような気がした。
昨日は、サーバートラブルでアクセスできなかったことを、付け加えておく。
所詮、素人がものを書くわけです。中には、文才やデザインのセンスに恵まれた人もいるでしょうが、大抵はそうではありません。へたくそな写真や、絵や、場合によっては音楽などを羅列して、一般公衆の面前に晒すからには、自己満足をキーワードにするしかないのです。大衆を喜ばせることが出来る人は稀ですし、人の役に立つには、多くの時間と労力を割いて、調べたり、考えたりしなくてはならないのです。私の場合、人に見せられるものは、何でしょう?私は、あなたと別な場所で生まれ、別の時間を生きている。今日通った道筋も違う。朝ご飯も違う。同じ新聞を見たり、ネットの記事を眺めたりしても、感じることはいくらか違う。
即ち、私が誇るべきものは自分のオリジナリティの他、なにもない。オリジナリティとは、その人の心の中に浮かぶ全てのことだ。自分自身を真摯に見つめ、それを誤解が無いように正確に表現する能力がオリジナリティである。他人に受けようと無理をしてはいけない。通りすがりの閲覧者にとって、もっともエキサイティングな経験は、むき出しの自分自身を露出させる、うそのない文章を読むことだ。自分自身を見つめ、信ずることを遠慮なく書き送ることが、ウエブサイトにとってもっとも魅力的な記事となり得る。
幸い、wwwは世界に向けて開かれており、ある頻度と確率で、私の発想に共感を持ってくれる誰かが、やってくる。私はただ通り過ぎるだけの99人のことを全く気にかけず、たった一人のために自分と向き合い、創作に励むのだ。
売店の入り口近くに、週刊誌や新聞を並べたラックがある。最前列ならともかく、後列に並ぶ雑誌の戦略として、誌名と一番目立たせたい見出しを表紙の上4分の1ほどにまとめている。
「杉●彩入れ墨ファ●ク大公開」と云うのが、週刊ナントカの表紙。伏せ字は私が入れた。隣のナントカポストも大差ない。杉●嬢のヌードをフィーチャーしているが、さすがに、「大公開」とは書いていなかった。こっちは袋とじとか。
彼女がヌードになったことが大きな出来事とは思えない。私の生活には多分、全く関係のない、本当にどうでも良いことだ。普通の感覚かどうか、自信はないが、見出しに口に出すのを憚られるフレーズを並べる、編集者の恥知らずに付き合わされる、買う方も恥ずかしいと感じるのではないか?
人々は、ミステリ小説に何を見出しているのか、私には良くわからない。私はこの分野にてんで暗い。
友人に勧められて、一冊のミステリ小説を読んだ。何一つ、予備知識を持たずに読んだのだが、子供っぽい表現が随所に出てきて、興味を殺がれた。著者はまだ未成年なのだろうと想像した。
主人公の少年は、家庭内の不和を悩み、居候していた元義理の父親を殺す。世の中には、その程度の苦労を抱えている人は数多く、ほとんどの人は、殺害以外の解決策を見出している。安直で利己的な解決法に走る主人公に気分が塞いだ。主人公も、著者も、その行為の動機が極めて利己的であることに思い至っていないところが恐ろしかった。元義理の父親は、主人公の立場から見ると、生きている価値のないもの、と云うことなのだが、筆者にはその部分が十分に表現できていない。みずみずしい高校生と、薄汚れた中高年を対比し、外観上の気味悪さを強調するばかりで、内面的な描写が全くお座なりである。見かけで人を判断し、非常に限られた情報から偏った判断をし、その結果、殺害というのは、あまりに身勝手だ。筆者は、主人公の行為を否定し、追いつめられた少年の心情を描写する努力をするべきであったが、結局、元義理の父親に加え、事件の証拠を握り、恐喝に及んだ友人、二人を手にかけた、半ば気が狂った少年を糾弾することなく、キミは悪くない、と、聡明な少女に云わせて、物語は終わってゆく。
私は、甘ったれた少年の狂気というとらえ方になった。そう思ってみると、このストーリーは読むに忍びない。話題になった作品らしい。多くの人々に受け入れられたと云うことなのだろう。受け入れた読者が、主人公をどう受け止めたのか、想像が付かない。
ミステリ小説は、ミステリなりの読み取り方をマスターしなければ、楽しめないのかもしれないと思った。
何故か、我が家に来る。ここのところ、毎日10通以上来ている。来たからと云って、どうと云うことはない。ウイルスであることは明白だし、実行ファイルを開かなければ、何も起こらない。私はマッキントッシュユーザーなので、EXEファイルをクリックしたところで、やはり何も起こらない。
あぁ、今日も来ている。と、思うだけ。賑やかだなぁ。馬鹿げて居るなぁ、と思うだけ。とりあえず、削除せずに、メールボックスに入れっぱなしだが、増えすぎて収拾がつかなくなってきている。今日になって、メールサーバーからのアラートも何通か来ているから、誰かのところに、私が差出人と云うことでウイルスメールが届いているのだと思う。嫌な感じだ。
今回、Underivered mail returned to senderと云うタイトルでウイルスが来た。出したメールのアドレスが間違えているような場合、メールサーバーから来るお知らせメールに似せている。出した覚えがなかったのだが、女房と半共有の形でメールを使っているから、開いてしまった。開いて、ウイルスメールだと気が付いた。
もし、私がウインドウズユーザーで、アウトルックのプレビューを入れていれば、感染していたと思う。
対策は比較的簡単で、怪しいと思ったメールは開かないこと。メールソフトのプレビューはオフにしておくこと。来たメールをとりあえず疑うこと。この三点で、感染は防げると思う。
マイクロソフトがウイルスの対策を公開している。
http://support.microsoft.com/default.aspx?scid=kb;JA;291387
(291387: Outlook Express 6 のワーム防止機能を使用する方法)
因みに、マイクロソフト社に云わせると、 Outlook 2002 (Office XP)/ Outlook 2003 (Office 2003) は、標準の状態で本ワームの実行を防止する機能がある、のだそうです。
上記サイトでは、豆文字だったりするのだが、「ウイルス防止機能」を利用する方法が詳しく述べられている、というか、これを読んで理解できない人の方が多いのでは無いかと思った。私も、良くわからなかった。
「ウイルス防止機能」などと云う、ウイルスプログラムの実行が阻止出来る様な、すごいのかと思ったが、何だかちょっと違うみたい。
多分、デフォルトでオンになっているいくつかのやばい初期設定を、オフにする、っていうのが、ウイルス防止機能、と云うことらしい。これって誇大広告のように思うが。
基本は、怪しいかどうか判断し、開かずに捨てることです、多分。防止機能を導入しても、そこが出来ないと意味なさそう。違うのかな?
いっそのこと、球団自体を手放した方が、分かりやすいだろうと思う。しかし、球団を維持するために、球団名に拘らないと云う考え方は、プロ野球以外では良くあることだ。
例えば、フォーミュラワンのチームは、チームオーナーは、レーシングチームを運営することに拘り、チーム名には余り頓着しない。チームオーナーによって幾分やり方は違うが、チームの全てをスポンサーの色に塗りつぶす。マールボロマクラーレン。JPSチームロータス。
チームオーナーは、チームの運営に誇りを持っている。チームを売ることと、チームを全面的にバックアップするスポンサーを探すことはこの場合は根本的に異なっている。
と云うわけで、プロ野球に馴染むかどうかは別にして、そういう商売のやり方はありだと思う。近鉄球団が最終的な生き残り策と考えているのなら、その前にやることはいくつかある。
大阪ドームから撤退し、藤井寺に本拠地を戻すことだ。
何にせよ、セリーグ人気球団のオーナーには理解できないことだろう。別段、どうってこと無いということ。野球チームのオーナーにとって、球団名より大切なものは三つくらいあると思う。
「キャバクラ遊び」と云うのが良くわからない。実は、「キャバクラ」そのものが分からないのだ。「キャバ」=キャバレー、「クラ」=クラブ、の略と、勝手に思っている。
キャバレーというのは、映画などで見たことがあるような気がする。しかし、私が知識としておぼろげに知っているキャバレーというものが、正しい認識なのかどうか、定かでない。キャバレーと称するところは、高級なところと、場末のところに随分と差があるように思う。
クラブ、というのは、会員制でお酒などを飲ませる飲食店、かなり高級なところ。要するに、高級感のあるキャバレー「の様な」ところ、がキャバクラなのだろうか?
私は、「カフェバー」というものが、かつて、流行った頃に実際に足を運んだことがあるにもかかわらず、結局、良くわからなかった。言葉の意味が分かったとして、実物を体験したところで、実体が理解できないこともある。おそらく、キャバクラは、そこで遊ばないと、意味が分からないのだろう。
一方、「イケメン」という言葉はさらに謎深い。キャバクラはいざとなれば体験できるが、イケメンはそうはいかない。要するに、ハンサムなこと、と思う。そう外れては居ないと思うのだが、何故ハンサムと云わずにイケメンなのか。
周囲の人に語源を尋ねたが、誰一人知っている人は居ない。「いけてる」(好ましい、かな?)「面」(顔?)という意見が大勢を占めたが、そうなのだろうか?メン=面、と云うところが随分無理があるような気がする。
何にせよ、語源をよく知らずに、軽々しく流行語を使うのは危険である。アナウンサーがテレビ番組で連発するのを聞くと、ひやひやする。多分、語源をご存じないのではないか。
イケメン、ご存じの方?いますか?
下北沢方面で会議。東京のホテル選びは訳が分からず、苦労する。木曜の晩が特に混んでいたので、余り贅沢は言えない、というか、贅沢を言おうにも、何をどう選んで良いかわからず。
職場の同僚が云うには、「某ホテルチェーンを選べば、まぁ間違いはない」ということで、ウエブページにアクセス。その時は満室だったが、水曜日に一室空きが出たので予約した。ロケーションは歌舞伎町である。小田急線で割と楽に行けるらしい。
歌舞伎町のホテルを取った、というと、女房が心配した。いや、別に風俗に手を出すとか、そういうことではなく、何か物騒なイメージがあるらしい。私も。
金曜の朝、8時過ぎ頃、ホテルを出て、区役所通りを歩いて駅に向かった。朝まで楽しんだお客さんをタクシーに乗せるホストのお兄さんたちが目に付いた。何か、そういう世の中、というか、単に私が無知なのか、結構意外で、さすがは新宿だ、と思った。
自衛隊派遣に関する国会承認案件が強行採決されました。強行採決という言葉が正しい言葉なのかどうか知りません。
大変重大なことだと思うので、念入りに説明し、納得した上で決定するべきだと思うが、何か別の事情で物事はすすみ、手続き上は国民の過半数の信任を得ている人々の賛成で、過半数に達しない人々の不満やら、反対意見を無視する形で論議は終了してしまった。
私は大変不快な気分になった。要領を得ない訳の分からない問答に終止していたように感じた。
賛成+無関心で、絶対安定多数という訳か。
薦め、進め、勧め、奨め
色々あるんだけれども。推奨する、だから、
時々、やらなくちゃ、と思いながら、数ヶ月に一度くらいになるんだけれど、久しぶりにウインドウズで表示確認と云うことをやりました。
私が使うパソコンは、デルのノート型。型番などは分かりませんが、OSはウインドウズ2000professionalの英語版です。IEのバージョンをどうやったら確認できるか知りませんが、アクセスログを見ると、IE6ということ。
いくつかのページを見ましたが、どうにも、変な感じです。最新のXPを利用できないのが残念なのですが、この環境で見る限り、普段(OSX10.3, Mozilla, Safari etc)と同じものを見ているようには見えないので。
何というか、ギザギザ、ガクガク。しょぼく見える訳です。がっかり。
試しに、これは私にとって初めての経験なのですが、Mazilla for Windowsをダウンロードインストールしてみました。
Mozilla.orgのダウンロードページをクリックするだけ。いくつかの警告ウインドウを適当にクリックすると、ダウンロードが始まりましたが、これまた変です。
「完了しました」って、いくら何でも速すぎないか?それに、地球からお手紙がひらひらと舞っている。
よく見ると、2%ーーー完了しました、と書いてある。完了していません、でしょうが。変なの。
後何かクリックしたような気がしますが、MozillaをWin2000で立ち上げました。フォントが明朝になるのですが、初期設定の場所が分からず、とりあえずそのまま見ましたが、IEよりかなり良い感じです。タダだし、みんなもMozillaにしたらいいのに。
インストールも簡単。ウインドウズの使い方を知らないことが自慢の、私にも出来ましたから。
で、気が付いてみたら、ゴタクの表示確認を忘れてシャットダウン(スタートボタンで終了というのもかなり変だが)してしまいました。もう出すのも面倒だし、また今度にしよう。
で、おやこニュース、Gotaku Statementsは、インターネットエクスプローラーでの閲覧は、お奨めしていません。
と云うわけです。
世の中の人の何割かが大学に行く時代である。アメリカの大学に行く人も珍しくない。古今東西を問わず、大学を卒業するには、入学試験に合格し、講義に出席し、実習を受け、試験を受けて、卒業論文を仕上げ、規定の単位を取得する。加えて、入学金や授業料など、必要な経費をを払い込まなくてはならない。卒業すると、卒業証書という紙切れが貰える。米国ではデプロマと云うが、仕組みは同じはずである。
大学を卒業したという履歴を得るためには、これらの行為が円滑に行われる必要がある。学生の多くは、卒業するために努力する。苦労するから、自分が卒業できるかどうかは本人にとって重大な問題で、かつて通っていた大学を卒業できていたかどうかわからないと云う事態は、あり得ない。ましてや、弁護士がそこに介入する余地はない。お金の管理を任せた税理士が、授業料などをごまかした可能性はあるかもしれない。卒業したはずの大学から、卒業の事実がないと云われたのなら、問い合わせるべきは弁護士ではなく、税理士である。
弁護士が、大学の卒業資格を何とかしてくれる状況は想定しがたい。もし、そのようなことが事実としたら、学歴詐称と云うより、寧ろ、学位の不正取得疑惑が持ち上がり、こちらの方が深刻な問題となるだろう。
有り体に言えば、ばれた時点で、本人は全ての状況が分かっているはずで、ロサンジェルス感傷旅行は時間稼ぎだ。本人に代わり謝ってくれる弁護士さんを募集しに行ったのだろう。本人はもう分かっている。ギインとしてお給料を受け取る資格が無いと、自ら認めている。だだをこねて服を脱ぎ、すっぽんぽんになって柱にしがみついている子供を説得するなり、無理矢理に引きはがすなりする保護者が、彼には必要だ。「嘘つきは泥棒の、、」などと、フクダさんに小学生の口げんかみたいな嫌み言われたら、私なら死にたい気分になる。「うそは大きくなるのです」という、ディズニー映画の女神様の言葉を引用するのがユーモアってもんだ。
十分辞めるに値すると思うが、辞めてどうなるものでもないし、辞めた後に補欠選挙がある。有権者がもう面倒くさいからそのまんまで良い、とか、補欠選挙はばかばかしいので嫌だ、と云うなら、有権者への恩返しのつもりで当分居座るのも良いかもしれない。放置して福岡名物にするもよし。煮るなり焼くなり好きになさるだろう。これに関しては、選挙区外の私がとやかく言うのは筋違いな気がする。
デジタル時代である。デジタル時代の特徴は、記録や伝達がデジタル処理されること。しかし表示、つまり、情報とその受け手のインターフェイスは、依然としてアナログである。
人間は、五感以外に有効なインターフェイスを持たない。情報の受け手が健常人を想定する場合、視力か、聴力に訴えるのが一般的である。そして、情報の受け手は、今までの経験や記憶と照らし合わせ、その情報を判断しようとする。
受け手に対するインターフェイスがアナログだという前提に立って、余白は意味がある。人はしばしばフェイドアウトを心地よく感じ、また、余白を意味上の境界線と認識するからだ。
目の前のウインドウにコンテンツが並んでいるとき、全く余白が無く、上下左右に収まっていると、しばしばそのウインドウから何かはみ出して居るんではないかと不安に感ずる。2行分程度の余白を下に残すことは、ここが文書の終わりで、その下にはもう何もないことを、暗示的に示すことになる。
余白は適切なサイズが望ましい。あまりに大きな余白は、寧ろ次のコンテンツを予告している様な錯覚をもたらすことがある。
サージェントペッパーズロンリーハーツクラブバンドが演奏を終えたとき、彼らは余白無しに人生を語りはじめた。「今日、新聞で読んだのだが」、と、語り始め、語り終えた後に、長大な余白を付けた。そして犬に語りかけ、物語は終わった。そのようなイニシエーションを受けている私には、大きすぎる余白に、その後のボーナスを期待させることがある。
余白は適当が良い。
初場所を、興味深く見ていた。幼稚園の行事で、安治川部屋の力士と接する機会があり、安美錦関を家族揃って応援している。特に、三女がテレビの前で大騒ぎする。スポーツ中継を楽しく見るコツは、ひいきの選手を意識することである。
今場所の安美錦関は、なかなか好調で、ふくらはぎの怪我が気になるのだが、無事勝ち越し、千秋楽に二桁の勝ち星がかかる。
安美錦関は、今場所は、かなり体重が増えたように見えるが、幕内力士のなかでも、軽量の方である。彼の相撲は緊張感が伴う。楽に勝つことは一度もなかったのではないか。常にぎりぎりの勝負となる。差し違いや物言いも何度かあった。しかし、それが彼の持ち味である。きわどく勝負が付いている様に見える取り組みでも、スローVTRで見ると、彼は必ず何かをやっている。偶然相手が足を滑らせたように見えてるが、彼がその前に何かをやっているのだ。恐るべき戦略、技術である。残念ながら、立ち会いで不利な体勢になることが多い。今場所は上位との取り組みがなかったが、来場所は番付も上がるはずで、上位とやるには、立ち会いで互角以上に踏み込む必要があるだろう。
ついでに見ている、横綱、大関クラスの取り組みも大変激しい。相撲は過激な格闘技だと、再認識した。
こうして、大相撲を楽しめるのも、NHKが再放送してくれるからである。かつて、大相撲ダイジェストをテレビ朝日がやっていた頃は、スポーツニュースで流すVTRは三番まで、とか、色々と制限があったと聞く。NHKの再放送は、取り組みのみをシンプルに伝えてくれるのが有り難い。私はなぜか、大相撲ダイジェストは、一度も見たことがなかった。
上位の取り組みを見る限り、大相撲の人気回復のための準備期間は順調に過ぎているように思う。そして、来場所も安美錦の活躍、スーパーテクニックを楽しみにしている。
最近、電子辞書プログラムを手に入れた。
岩波国語辞典であるが、それによると、
すいこう【推×敲】
詩や文章をよくしようと何度も考え、作り直して、苦心すること。
唐の賈島(かとう)が「僧は推す月下の門」の句を得たが、「推」を「敲(=たたく)」に改めた方がいいかどうかと苦心した故事による。
推敲は楽しい作業である。書き上げた文をより適切な表現に直してゆく。しかし、忙しいときほど、おざなりになる。
おざなり(お座なり):その場限りのまにあわせ。いい加減。
なおざり:余り注意を向けず、いい加減にするさま。おろそか。
[株式会社岩波書店 岩波国語辞典第六版]
素晴らしいアイディアに恵まれたときは、念入りな推敲を楽しみたい、と思う。念入りに推敲された文は、読む側にも大変分かりやすいはずだ。
年末年始、手塚治虫氏の「火の鳥」を読んだ。全13巻のうち、5巻までを手に入れた。近所の書店で見つからなかったので、古本屋(Book Off)に出かけたところ、書棚にあった。私の近所でもっとも品揃えの良い書店と言っていいだろう。定価の4割引ほどの値段だった。
しかし、私が支払ったお金は、どうやら、作品の著作権に対するものではなく、不要な品物を引き取り、必要な人に売り渡すための手数料ということらしい。いくら古書が売れたところで、著作権者に印税は入らないのではないか?
古書の取引そのものを否定するものではないが、知的所有権の委譲が伴う以上、著作権者に印税を支払う仕組みを作って欲しい。既に絶版となっているものは別として、中古書店を有効に活用しようと思ったら、その仕組みの整備は必須だろう。それが出来るまでは、Book Offは利用しないことにした。
おめでとう。
色々と問題はあるあと思うが、赤ん坊の誕生はとりあえず、おめでたい。生まれてきた赤ん坊におめでとう。
ご夫婦のやったことを肯定するかどうかは、難しい問題だ。新しい一歩を踏み出したと云うことは間違いない。私は単純に諦めるべきだと思ったが、人それぞれに考え方はあるし、努力の方向性が違うのだ。
今回のケースが一般化されるのは、良くないだろう。分娩を伴わない親子関係の増加、出産のプロ化とか。精子、卵子、受精卵を売買するようなこと。大変年の離れた親子関係の増加など、色々と危惧するケースがある。
今回のケースを特殊と認定し、肯定するか?特殊の線をどこに引くか。わがままや自己満足との兼ね合い。
様々に考えねばならぬことがある。
どうして私が、このことに言及したか、実は、先日、NHK深夜のニュースで、ご夫婦の記者会見の模様がチラリと出た。それを見ていた。
意外に思った。別に、有名人の夫婦が、苦労の末、体外受精、代理母による出産に成功したから、おめでたくてニュースになったわけではない。様々な倫理的問題を包含する、初めてのケースだからニュースになったのだ。
法律上、おやこと認められなくても構わない、というようなことをいっていたが、それは違うと思う。法律が、このようなケースを想定していない。今後法律を書き換えなくてはならないことは明白で、その際に、今回のケースが実のおやこと認められるかどうかは、将来、同じことに悩み、苦しむ夫婦にとって重要なことなのだ。
勇気を持って臨んだついでに、法律の改正も目指していきたいと云った方が良い。
自分たちにはもう赤ん坊が出来たから、先のことは知りません、と、受け取られかねない。もう一がんばりするべきだと思う。
この掲示板は、日記ではありません。
ブログでもありません。強いて云うなら、愚痴で、少々出来の良いときには、エッセイ風になっているかもしれない。
思いつき、や、覚え書きの時もあります。