情報を制限すること(2007-05-10)

見せたくないテレビ番組

毎年恒例のニュースである。以前、私はこのニュースをさほど違和感なく受け止めていたが、今はずいぶん滑稽に思える。

要するに、PTA全国協議会が小学5年、中学2年の子を持つ保護者に忌々しいと思うテレビ番組を尋ねたアンケート結果である。

かつて我が家では子どもたちがチャンネル権を主張することは希だった。子どもたちは親が厳選した番組を見ていた。いま、いくらかそのたがは緩みつつある。風呂場でテレビを観られるようになったのだ。

対策は簡単で、子どもたちを放置せず、積極的に干渉することだ。チャンネルのコントロールは、親の責任だ。我が家のテレビは居間に一台だけであるから、何かの番組を見るときに、その場に居合わせる何人かと協議が必要だ。さらに、私は子どもたちと一緒にテレビを観る。これは面白いとか、それは下らないから見るな、とはっきり言う。時に激しいやりとりになる。ことに、三女(小学4年)と長男(小学1年)を納得させるのは簡単ではない。子どもたちから学ぶこともある。

PTAがランクインさせた「見せたくない番組」の多くは、うちでは観ていないので、どんな番組か分からない。タイトルだけ見ると面白そうだけれども、駄目なのかな。

一方、見せたい番組「IQサプリ」は子どもたちが喜んでみているが、私は横で苦虫を噛みつぶす。時間の無駄と感じる。ギリギリの線。見せたいとは思わない。良い番組ではないですよ。下らないです。私自身も毎週半分くらい観ていますけれど。

私が子どもたちに見せたくない番組はニュース。酷いニュースが家族団らんの時間のお茶の間に流れるのは、宜しくない。NHK7時のニュースが「見せたくない番組」のランキングに入ってこない理由は、端からみんな観ていないから、ということなんでしょうね。

で、テレビなど、些細です。そのうちにテレビは滅びますから。近い将来、地デジが完全に普及して、アナログ放送停波の頃には子どもたちは通常のテレビ番組に全く興味を失っているかも知れない。テレビをネットで観る時代になったら、PTA協議会の皆さんはどうするかね。

フィルタリングと情報管理

思うに、子どもたちが勝手にテレビ番組を観るのはテレビを二台用意するからではないか。例えば、親が自分の部屋に一台置けば、居間のテレビは子どもたちの自由になる。親が自分のチャンネル権を主張することは、結果的に子どもたちのチャンネル権を認めることになる。親が自分の観たい番組を自由に観ておきながら、子どもたちに観るなというのは筋が通らない。

子どもたちが観ているということは、親が許しているわけだ。自ら許可しておきながら、アンケートで文句を垂れる。そういう無責任さを毎年公開しているということだ。おかしな話し。

もっとも、今や情報機器といえばテレビより携帯電話だろう。多くの子どもたちが持っている。幼稚園児でさえ持っている。そのうちに、一歳の誕生日に携帯電話を送る時代が来るに違いない。

教育再生会議の偉い先生たちが、子どもたちが情報機器に毒されていることを指摘して、その弊害に対して警告している。

毎日新聞の対談の中で、義家氏はフィルタリングの重要性を強調する。なんだそれは。大人が情報機器を子どもに与えておきながら、有害サイトへの接続制限が「親学」の特に重要なテーマだとか言う。

現代の子どもは、大人たちが知らない間に出会い系サイトや残虐な情報に触れられる環境にある。しかし、大半の大人は代表的な出会い系サイトの名前さえ知らない。

闘論:「親学」は必要か 義家弘介氏/水谷修氏

などとおっしゃる。私はその大半の大人に含まれていて、出会い系サイトの名前など存じ上げないし、「代表的なもの」があるということさえ知らない。私は、その様な無知を恥じることはない。むしろ、知らないのが当然だと思っている。もしかすると私のパソコンメールアドレスに届くスパムの中に「代表的」な出会い系サイトのプロモーションメールが含まれているのかも知れないが、私はそういった宣伝メールは開かずに削除する。タイトルや差出人アドレスの雰囲気で、宣伝かどうか見分ける術を身につけている。

しかし、本当なのか。義家氏が言うことは事実なのか?それから、本当に義家氏はこのようなことを発言したのか?

下らないフィルタリングは、かつてあった高校生に対する「三無い運動」に似ている。取りあえず、教師たちは自分に責任が被らないようにそのときだけ辻褄を合わせて、教え子たちの将来のための教育に対する責任を放棄する。

一生フィルタリングが掛かった人生を送ることが出来るわけがない。まして、フィルタに掛かる側も巧妙にフィルタを避ける術を身につける。結局のところ愚かないたちごっこになり、フィルタリングなんぞ意味はない。親や教師や教育再生会議の自己満足。つまり、無責任だ。私は、義家氏のことをよく知らないけれども、ここの部分に関して彼は間違っていると思う。

私は携帯電話を持たずに生活していて、我が家のメンバーの誰一人、持っていない。たまに困ることがあるが、しょっちゅうではない。携帯電話があると連絡が付く可能性は高まるが、連絡が付いても結局解決しないことの方が多いだろう。

これだけ、様々な問題点が指摘される中、親たちが子どもに携帯電話を買い与える心理は、私には理解不能だ。理解不能なりに推測すると、親たちは自らの携帯電話依存を子どもに押しつけているということではないのか。

中高生が電車の中で携帯電話をいじくっている。大人たちも携帯をいじくっている。自転車に乗りながら、歩きながら、飯喰いながら、人と話をしながら、電車を待ちながら、電車に乗りながら、パチンコしながら、テレビを観ながら、小便をしながら、携帯をいじりながら、左手は携帯電話をいじっている。

必ずや将来、この非生産的な行為は批判されることになるだろう。携帯電話依存者は喫煙者と同じ扱いを受けるようになるかも知れない。嫌煙権のように、携帯電話を拒否する権利が認められるようになる。すでに病院内では携帯電話はかつてのタバコと同じ扱いを受けている。

私は予告する。そのうちに、携帯電話を使いたくない人が、自らの権利を主張する時代がやって来る。「携帯蚊柱論」は次回。