パソコンで音楽を聴くこと(2005-02-22)

CCCDとは、Copy Control Compact Discの略称であるらしい。パソコンが普及し、様々なメディアが全くの素人にも利用可能となった。音楽用CDのみならず、デジタルコピーや、アナログ情報のデジタル化が一般化していることは昨今の偽札事件でも明らかである。我が家にも、パソコンがあり、CDROMを読み込むことが出来る。CD-RWもあるから、音楽用CDの複製が出来るし、実際にやっている。

音楽業界は、音楽用CDの売り上げが思わしくない原因を、コピーの横行に求めた。CCCDは意図的なエラーデータを組み込む、などの方法で、パソコンへのデータ読み込みを阻止する。知人のウインドウズユーザーによると、ウインドウズパソコンでは、CCCDを読み込むことが出来ないらしい。我が家にも数枚のCCCDがあるが、マックで読み込みはさほど問題ないように感じている。コピーも可能である。CCCDは音楽を楽しむ人々の裾野を狭めるという劇的な効果をもたらしたのではないか。著作権にお金を払う意志を持たない人がCCCDならお金を払うだろうと考えたのだろうか。


CCCDが登場し、私は大変腹が立った。この珍妙な工夫が顧客(ユーザー)のためでないのは明白である。問題の責任は、顧客にはない。CDというメディアの不完全さが問題だ。CDという供給形態にこだわり続ける限り、如何に工夫を凝らしても、いたちごっことなる。顧客はメディアにお金を払うのではなく、メディアに含まれる情報を楽しむためにお金を払うのだ。

私は著作権にお金を払う意志を持っている。3千円あまりの再販価格は余りに高いと思う。ばかばかしいと思うが、お金を払う。次も聴きたいと思うなら、違法コピーに手を染めるべきではない。コピーCDの問題点は、ミュージシャンたちに一切の対価が入らないことなのだ。聴き手はその音楽を支持しているという意志を、著作権に対価を支払うことで示すべきだ。

重要な点は、音楽を聞くコストが適正でないことだ。もし、CDの価格が半額になったら、私は今の倍以上のCDを買うだろう。音楽を聴く側の経済状況を、音楽業界は考慮するべきだ。中学生、高校生は、数年後には貴重な顧客となり得る。彼らは年に何枚のCDを買う余裕があるか。学生割引などの導入によって、顧客を育てることを真剣に考えるべきだろう。

加えて、CCCDは明らかに品質を落としておきながら、価格が下がらなかった。我が家では、子どもがCDをいじる。光学ディスクというメディアは、子供たちの狼藉に対して脆弱である。私はメディアを守るために、子供たちが興味を持ちそうなCDのコピーを作製していた。CCCDの登場は、従来ユーザーの権利のとして認められていたはずの、個人で楽しむためのコピーの権利まで奪ってしまった。ならば、CCCDは従来の半額で提供するべきであったし、ユーザーのコピーを許さないというのであれば、最初からコピーをセットして、二枚組で売るべきだった。結局、CCCDは、著作権にお金を払う意志を持つ音楽ファンを裏切り、将来著作権にお金を払う可能性のある音楽ファンを突き放した。誰がもうけたのかは知らない。顧客に対する裏切り行為であることに思い及ばない、供給側の馬鹿さ加減が明白になった。金の卵を産む鶏の腹を裂いてしまった。それだけのはなしである。

結局、多くのメーカーが、コピーコントロールを諦めつつあるという話を聞いた。下らないギミックにこだわっている間に、CDというメディアは終末に近づきつつある。


息子は4歳であるが、音楽に興味津々である。幼稚園で色々と歌を覚えてくるが、彼の興味は童謡や唱歌ではない。ポップスやロックミュージックである。私が気に入った音楽のいくつかが、彼の印象に強く残っているらしい。聴かせろ、と、迫ってくる。音楽というものは、何も難しいものではない。大人の多くが、どこかで聴いたことのある音楽に拘る。近頃のヒット曲は、ほぼ全て、何らかのタイアップである。要するに、音楽を聴くという活動に、別の感情を絡ませようと云うのだ。例えば、F-1のテーマ曲を聴くと、レーシングシーンを思い浮かべ、ある音楽を聴くと、ドラマの名場面を思い浮かべる。ある人にとっては、ベートーヴェンの交響曲が、焼き肉の曲だったりするわけだ。これらの活動は、音楽を流用しているだけで、下らないタイアップやコマーシャルの替え歌に私は怒りを覚えることがある。商業主義、大量消費の米国で、名曲がCMに流用されることは無かったように思う。音楽の本来は、リズムやメロディを心に響かせることだ、ということを、息子を見ていて感じる。彼が選ぶ音楽に、あらゆるタイアップは関係ない。何の背景もなく、彼は音楽のリズムやメロディを楽しむ。息子に学ぶことは多い。


息子がiTunesに熱中している。自分の気に入った曲を聴かせろ、と迫る。音楽を聴くこと自体は構わないのだが、パソコンは居間に置いてあり、他の家族の迷惑を考えねばならない。また、息子は、ビジュアルエフェクトに夢中になる。つまり、彼は音楽を聴いている間、パソコンを占拠することになる。ちょっとは遠慮してもらいたいと思うが、4歳の男の子に、特に我が息子には、遠慮という言葉は似合わない。

息子はiTunesの立ち上げ方を心得ている。ドックの上から三番目にある黄緑色のアイコンをクリックすればよいということを知っている。しかし、彼の好きな音楽をどうやって探したらよいのかがわかっていない。曲を探すには、私の介助が必要なのだ。これは、iTunesの大きな弱点で、iTunesはインターネットを利用して、トラック名を自動的に取得するが、これはあくまでテキスト情報であるから文字を読めない人には利用できない。iTunesはアルバムのジャケット画像をアートワークとして表示する機能がある。トラック名と同時にアートワークも読み込めるようにしたらよいと思うが、アップルは音楽情報と画像の融合に関して積極的ではないようだ。iPodにカラー液晶が搭載され、その道は開けたように思うが、カラー表示が可能なiPodは最上級モデルのみで、非現実的なお値段である。

子供たちがパソコンを利用する上で、障壁は多い。OSのレベルでは、様々なアイコンで、アクセッシビリティに配慮されているが、ソフトウエアのレベルでは、テキストの理解が障壁となる。子どもが使うソフトでは、小学生モード、幼稚園モードが当然あってしかるべきだと思う。例えば、ATOKなどは、片っ端から、使う側の理解を超えて変換してしまう。全く宜しくない。

アップルがiPodのカラー表示を特別なものに位置づけたのは、大きな失敗だったと感じている。近い将来、カラー表示は当たり前のものになるだろう。音楽プレーヤーがカラー表示をすることは、ユーザーの裾野を広げるという意味で大変意義深いことなのだ。携帯電話も、あっという間にカラー表示が当然のものになった。