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おやこニュース管理人より

2008年が始まるにあたり、

去年一年間のメモを見直した。色々なことが起きた。我が家では長男がいよいよ小学校に上がった。世間では、赤ちゃんポストの設置が話題になり、沢山の子どもたちが遺棄されている現実が見えてきたように思う。子どもたちを救わなくてはならない。

メモから、いくつかを抜粋する。

子育てについて書くこと

実際に育児している身ですので、それについて書く時はウソは書きません。しかし、時に婉曲表現が入ります。これは色々な意味で仕方がない。察して下さいということなのです。

あと、私もかつては独り身でした。子どもがいない新婚時代を経験し、長女を授かった時、妻のおなかをさするようなことをしました。長女が生まれた時の気持ちは、表現するのが難しいです。そして、同じような気持ちをその後三度経験しました。生まれてくる赤ん坊はいつだってグニャグニャで、紫色で、そういうものです。二人目を授かるまで、私たちは一人っ子の親でした。

飛行機の中で子どもが泣き叫んだことがありますし、新幹線の中で必死になってあやしたこともあります。

私たち夫婦は、子供から目を離さずに生活しようと努力しましたが、それはかなり大変なことですし、相当な無理があることを知っています。

子ども相手にかっとなることもありました。それでも親は踏みとどまるものだ、と思いました。

そしてもっと前には、私自身が子どもで、クソガキで、さらに前には泣き叫ぶ赤ん坊で、さらに前にはこの世には居なかった。

人々が興味を持つ理由が良くわかりません。育児現役世代が興味を持つのは分かる。既に育児を終えた人たちのアドバイスは素直に聞きたいと思う。

それより若い人たちには、「察して下さい」ということと、親は「踏みとどまる」経験を繰り返すということを、心に留めていただきたいと思います。(2007-12-21)

親の気持ち

よその親を批判する気持ちを持つのは理解できる。しかし、実際に自分が子どもをもつと、いろいろと上手くいかないことに気がつくと思う。但し、気がつくにはちょっと時間が掛かって、例えば、三人目を育てるときに、女房が根気を失って、全部よろしくと亭主に押しつけたりしたときに、亭主は初めて気がつくかも知れないし、私はその経験がないんだけれども、保育所に預けたり、実家に甘えたりすると、当分気がつかないかも知れない。で、我が子が親になり、孫が育つのを見るときに、自分が育てたはずの我が子が、バカな親になっていて、それが概ね自分のコピーみたいで気がつくこともあるかも知れないと想像。

頑張れるときに、精一杯頑張ってくださいということと、あと、名前はあんまり拘らない方が良いね。30年後にどんな名前が主流になっているかなんて、分かんないからね。名前に込めた親のワガママくらいは、ちょっと我慢してもらったら良い。親はそれに見あう苦労というか、努力をするからね。

まぁ、とにかく思い通りに行かないのが育児で、遅かれ早かれ、挫折感を味わうはず。そんなん知らんと云う、とても運がよいかとても鈍感な人もきっと居るだろうけれど。(2007-10-08)

素晴らしい言葉

耳障りの良い言葉を沢山覚えて、他山の石をコレクションして。

例えば、ベランダに踏み台になるようなものを置いてはいけませんとか、子どもは風呂の残り湯で溺れることがあります、と云うような教訓は大いに役に立つけれども、教育やしつけの教訓は、役に立たない。優しい言葉を掛けるとか、可愛がられ 抱きしめられた子供は、世界中の愛情を感じ取ることをおぼえるとか、そんな句を幾つ覚えたところで、何も起こらず。私は私以上の私にならないから、いくらそのような言葉を覚えたところで、子どもたちは、親の抱える自己矛盾に不審を抱き、絶望する気分を味わうだけと、私は思う。

そのような自己矛盾を目撃して、不審を抱くことは、子どもたちの成長にとって得難い経験なのだろう。子どもたちは、親の失敗談や、昔話が好きなのだ。

他人の説教は少しだけ役に立つことがあるかも知れない。万能では有り得ず。少しだけ役立てるつもりで聞いたらよい。(2007-09-26)

家族団らんも楽じゃないね

家族団らん。私はほぼ毎日、家族と夕食をともにしている。

そして、残業手当などもらったこと無いが、家族揃って夕食を済ませて、子どもを風呂に入れたあと職場に戻る。妻が協力してくれるから、そういう生活を15年ほど続けてこられた。残業代はもらっていないし、通勤手当も二往復分はもらえない。色々と考えて、そういうことを続けている、上司の理解にも感謝している。

大臣はずいぶん軽く考えているようだけれど、少子化問題は厚生労働省は関係ないのかな。大体、この問題の解決には男性の意識を変えることが必須だけれども、少子化担当の大臣は常に女性だし。

家族団らんはまず、女性の地位向上だな。どうして、男性の育児休暇取得率100パーセントを目指すと云わないのかな。

ジェンダー教育と云うやつと密接に関わっているのだろうと思う。(2007-09-11)

育児の基本

パートナーと良い関係を保つことだな。(2007-07-19)

バカ親批判

私には4人子どもがいる。4人の親。バカ親である。

思うに、立派な親になることは難しい。大体の親はバカだ。

バカ親批判をするまだ親になっていない人の多くは、ほぼまちがいなくバカ親になる。

バカ親とか教育とか出産とか子どもに関する議論がくだらない理由っていうのは、要するにそういうことと思う。

親になって分かる、親の難しさ。子を育てて分かる親のバカさ加減。

私は絶対に我が子を虐待しませんという人と、泣きやまないので思わずかっとなりました、という二通りの親が居たとして、私は後者の方が理解できる。(2007-07-17)

我が子はかわいいのか

「自分の子どもがかわいいのは当たり前ではないですか」と、私に言ったのは、新婚でそろそろ一人目をつくろうと計画している職場の同僚だ。そんなことはない、と云う私の見解に、彼は憮然とした表情をみせた。実の子どもに対する虐待は別に珍しいことではないし、私は4人育てて、虐待する親の気持ちは少し理解できるようになったと表明すると、彼は私をさげすんだような表情で見た。

長女が生まれたとき、私は積極的に育児に参加した。私たち(家族三人)はとても自由だったから、自分たちのやり方で育児に取り組むことが出来た。長女に離乳食を食べさせて、長女は大変良く食べたのだが、器から小さなスプーンで掬って長女の口に運ぶ。長女が満腹になるまで、それを繰り返す。小さなスプーンで、いくらでも食べ続ける。しばらく続くと、私は果たして子育てを終えるまでに何度スプーンを子どもたちの口に運ばなくてはならないのだろうと思った。それは永遠の時を費やす作業のように思えた。

長女の育児は、アメリカで始まった。彼の国では、出産・育児は夫婦の共同作業という考え方が徹底している。口を出す人に気兼ねする必要もなかった。私たちはそこで私たちのスタイルを確立した。二人目の出産は帰国後。都合で妻は里帰り出産となった。三人目が生まれたとき、長女は幼稚園に通い始めた。乳飲み子と次女を妻に任せて、最初の懇談会に私が出席したが、父親が参加していたのは私だけで、幼稚園の中で大変目立った。子どもたちが社会活動に参加し始めると、私たちの独自のスタイルを維持することが難しくなる。いま、子どもたちはそれぞれに学校、幼稚園などに属しているが、そのケアをするのは主に妻の役割で、私は妻のサポート役である。理由は、社会がそうなっているから。妻は先頃、くじ引きで子供会の役員になったが、端から父親が参加する設定になっていない。長女の幼稚園の卒園式では「お母さんに感謝の言葉を述べる」コーナーがあったが、父親は無視された。

私が子どもたちのために様々な努力をし、犠牲を払うのはなぜだろう。それが自分の子どもに対する愛情なのだろうか。

私は違うと思う。小学校の教師は、自分が担任を受け持つ児童をかわいく思い、他のクラスの児童はかわいく感じないのだろうか。児童は皆かわいいに違いない。教師は担任を持っている児童たちに特別な責任を持たされている。その点が大きな違いだ。

私は自分の子どもたちがかわいいと思うことがある。(腹が立つこともある)

なぜか。自分の子どもだからか。違う。私には子どもたちを育てる責任がある。責任を果たすために努力している。子どもたちは私の努力を受け止める。私が努力するほどに、子どもたちは変化する。子どもたちの変化には「成長」という特別な言葉を充てる。子どもたちは私の努力(だけではないけれども、様々な外からの刺激)によって育まれ、成長していくことで私は愛情を感じるようになる。ようやく、私の子どもたちに対する愛情が出てきた。ずいぶん回りくどい愛情だ。

私は、愛情が親子関係から自然に生まれるのではないことを指摘したくて、このようなことを書いている。血縁関係であったり、生活の場が近いことが自動的に愛情に繋がるわけではないと思っている。自分の子どもがかわいいのは、当たり前ではないのだ。自らが選んだ妻との間に、自らの意志で子どもをもうけて、その責任において努力し、私は子どもたちに対する愛情を育む。

私の想像力は、子どもたちに対する虐待が、誰の上にも、もちろん私にも起こりうることを警告する。我が子がかわいいのは、別にその子が自分の子であるからではない。そういうことは、子どもを育て始めてから気がつく人は気がつくのだろう。4人目を育てて、少し余裕が出来たときに、私はつくづく感じた。(2007-05-23)

育児バリア

知人が市議会議員に当選し、議員活動の広報誌の編集を手伝っている。三ヶ月ごとに編集会議が開かれる。

その場で一度提案したことがある。

「西宮市の条例で、全てのパチンコ屋に託児施設を義務づけたらどうですか。」

編集会議のメンバーで現役育児世代は私のみ。他の年長者のメンバーは私が何を言い出したのか理解できなかったようだ。

一笑に付された。議員さんは、面白いけど受け入れられないだろうとニヤニヤしていた。

別にパチンコ屋に限定する必要はない、映画館やゲームセンター、ショッピングセンターに遊興施設を含めた全ての施設に、託児施設の設置を義務づける。もしくは、近隣の託児施設との提携を促す。

例年、何人かの子どもたちがパチンコ屋の駐車場で命を落とす。親の留守中に自宅に残された子どもたちが火災の犠牲になる。

子どもたちの立場に、親が外出する動機は関係がない。子どもたちだけで置き去りにされる事実が重要で、解決すべき問題だ。

男女共同参画が謳われて「働く女性のために」保育所の拡充が叫ばれている。なにも、これは女性に限ったことではない。

現状では親が保育所を探す。むしろ、事業所の側に託児施設の提供を義務づけるべきではないか。

或る特定の「働く女性」の支援に、社会は理解を示す。恵まれた境遇の人々が、恩恵を受ける。

育児を担当する人が助けを必要としているとき、その動機を社会通念で評価するべきではない。

息を抜きたいと思うようなときに、誰も助けては呉れない。仕事を助けるのではない。育児を助けるのだ。(2007-04-02)

妻と話をする

和光市の女性が、スキー場まで往復している間に火災で長男を失った話。

私たちの結婚生活は所沢市で始まった。途中二年ほどカリフォルニア州に住んで、帰国後三女が生まれるまで、所沢に住んでいた。和光市は割と近いし、スキー場に往復したのなら、関越道を使ったんだろうと、なかなかリアルで、事件自体は強く印象に残った。

簡単に言えば、「子どもをほったらかして友達とスノボに行った」ということになる。

私はその記事を読んで、新年早々に以下の感想を書き留めている。

母親は子どもを家に残して丸一日出かけていた。そのようなことをすべきではないことは明白だが、母親はそういう認識がなかったに違いない。誰かがアドバイスしてあげれば良かったと思う。繰り返される悲劇を防ぐために、託児施設などの充実も必要だろう。

最初の子どもをカリフォルニアで産み、一歳半までそこで育てた。日本人駐在員がスーパーマーケットの駐車場で逮捕される。寝ついた子どもを車に残して、買い物をしている間に、車の周りに人垣が出来て、その中にポリスも居る。子どもを一人にすることが虐待という認識である。私はカリフォルニアでそのことを真っ先に学んだ。学んだから知っている。どうして子どもを一人にしてはいけないのか、考える機会を与えられた。知っているからやらないようにしていた。ほぼ、やっていない。

妻に話題を振った。ようやく長男が小学校に通い始める。長女が生まれてから13年目。彼女は専業主婦である。

和光市の女性は大変運が悪かった。一生懸命子どもを育てて、必死になって生活していた。彼女と無関係な人々が、彼女を知るのは、彼女にとって最悪の出来事が起きたことだけである。

ちょっと分かりにくいか。

毎日毎日、彼女は一生懸命生活し、大体上手くやっていた。そして、魔が差した、最悪の17時間の出来事がマスコミを通じて世の中に伝わった。その一部分だけで彼女を評価してはいけない。

妻は云う。彼女は息抜きをしたかったんだ。別にスノーボードでなくても良い。パチンコでも、コンサートでも、踊りに行っても良いし、唄いに行っても良い。誰かが彼女の話を聞いて、慰めてあげればよかったのだ。懐かしい友達がスノーボードに誘ってくれた。おそらく、彼女の子どものことを思って、日帰り。残念ながら、17時間子どもを放置することに、適切なアドバイスを出来る人がその中にいなかった。

スキー場には託児施設があったのかも知れない。いろいろ不自由はあるにせよ、子どもを連れて行ったら良かったのかも知れない。友達に交代で相手をして貰うとか、いろいろと手はあったはずだが、彼女はそのことを思い及ばなかった。どうして良いか分からなかったから、そのときに考えついた彼女にとって最善と思われる方法を選んだ。

無知。

そして育児には息抜きが必要。

それにしても17時間は長すぎた。

私と妻の会話の中で、こういった話が出た。彼女は頑張っていた。概ね上手くやっていた。その17時間を除いて。そして、その17時間のみに注目が集まった。不運、そして無知。

虐待、保護責任者遺棄に該当する可能性があり、逮捕は妥当だった。似た状況の人々に、子どもを放置することの危険性と、それがが遺棄罪に相当する可能性があることを周知させる効果があった。一方で、彼女は虐待の意図はなく、子供を失うという悲劇的な現実に直面しており、不起訴処分もまた妥当であると思う。

2007年に向けての口上

また一年が過ぎました。

おやこニュースを開設して6年余りが経過しています。

当時生まれたばかりだった長男が今年は小学校に上がり、姉たちもそれぞれに成長し、多くの事柄が既に過去形になっている。育児情報提供という立場では少々行き詰まり気味。また、画像が多数使われているが、妻もわたしも、そして子どもたちも、今のところ余り文句はないらしい。管理人の立場として、個人情報保護という観点で気を遣うようになった。

娘達も難しい年頃になりつつあるから、苦情が出たら画像を削除するとか考慮しなくてはならないと思っている。

2006年は騒がしい一年だった。教育基本法の改正がおこなわれ、国会審議中に自殺予告騒動が起きた。文部科学大臣や教育委員会の全く不可解なステートメントの発表のために、ことはどんどん荒立てられ、私は呆然としたというか、結局誰も死ななかったのか、それとも騒ぎの最中に自殺した子が居たと思うが「豊」の字が付かなかったから別に構わないと判断されたのか、そこら辺はよく分からぬ。しかし、大臣が事を荒立て、マスコミが囃し立てた。

時が過ぎ、依然としていじめは続いている。子どもたちは様々な理由で命を落としている。

子どもの自殺は今始まったことではなく、毎年少なからぬ子どもたちが自殺により命を落とす。それが何故、突然騒ぎになったのか。

いじめる、いじめられる。ともに学校が適切な対処をするべきというのはその通りなのだが、そこにたどり着くまでに、家庭がどのように関与すべきか。私はその点を強く意識する。

私の子どもは、

私はどちらも嫌だ。しかし、我が子が何れに含まれる可能性は感じる。私が子どもの頃にもいじめはあった。いじめは、それに関わるか、関わらないか。あるいは、いじめるか、いじめられるか、どちらかに含まれてしまう可能性が高い。現にいじめがあれば、どちらにも関わらずに学校生活を送ることの苦難は想像に難くない。

出来れば、いくらか社会に貢献したいと思いつつ、ウエブページを更新している。

おやこニュース全体として、誰かに楽しんでいただければよいと思う。

おやこニュースは、、、(2004年の端書き)

さて、2004年が開けました。おかげさまで、家族も皆元気です。子どもたちはそれぞれの速度で成長し、私と妻は、毎年歳を取ってゆきます。家族の状況が変わり、加筆ではつじつまが合わない部分が多くなったので、この部分を書き直すことにしました。

私はどうして、家族を話題にしたウエブサイトを作り続けているのでしょう?ウエブサイト(いわゆるホームページ)を持つことが、何か特別なことのように扱われる風潮もあります。しかし、実際にやってみれば分かることですが、こうしてホームページを作り、サイトを維持管理することは簡単なことではありません。誰かにアドバイスを求められたら、今なら、止めた方が良い、と云うかもしれません。或いは、やるなら、ごくごく軽い気持ちで、と云うのもひとつの取り組み方でしょう。何より、大切なことは、続けることです。

おやこニュースを立ち上げた3年前と比べて、世の中の状況はずいぶんと変わってきています。私の目指すところも、少しずつ現実に目覚め、淘汰されて来たように感じています。インターネットという公共のものを使い、私は何をしようとしているのか。要点は二つです。

  1. あくまで、自己満足で、自分たちの記録を残すということ。
  2. 結果的にそれが誰かの役に立つならば、それが無償でおこなわれ、全く何らの見返りを求めないこと。

WWWがもたらす独特な人間関係の距離感に、私自身が当惑することが多いのです。皆さんがここで目にする全てのものは、私が、私と家族のために作ったものです。他の何のためでもありません。それが、ご覧になった方に何らかの利益をもたらすならば、それは全く望外のことです。私にとって、いらっしゃる方々は、まるで透明人間のようです。私はアクセスカウンターなどで、誰かがここにやってきたことを知ることが出来ます。たった今、誰かが隣のページを眺めているかもしれないと感じることは、管理人にとって独特な感情です。

何かを感じ取っていただいたときに、それは、インターネットというバーチャルな空間に存在していながら、実は、私たちが実際の生活で見聞きし、感じ取った実体であること、そして、私の部屋の(実際の部屋です)机の上で、私が考え、作り出した実体を、WWWと云う空間に、送り出したからこそ、そこにある、と云うことを想像していただきたいと思います。

私がこういったことを始めて3年あまり。私は、自分がすごいことをやっているのだと感じています。全くの素人の私が、自分の感じること、経験したことを、これほど詳細に記録してゆくことは、ウエブページ作製以外にあり得ないような気がするからです。目撃することの快感をお楽しみ下さい。私は私で、楽しんでおります。おやこニュースは、更に当面続く見込みです。

2004年4月 管理人

2002年の端書き

このサイトでは、私(トウサン・ナミンチチ・管理人)の思うが儘に、私たち夫婦と、4人の子供たち(ナミンチ・ヨウカラ・エリポン・タンタン)の日常を紹介してゆきます。親ばかサイトかといえばその通り。しかしながら、子育て、(こどもたちと生活してゆくこと)には絶大なエネルギーが必要です。ただ、日々を平穏に過ごそうとするだけで、次々と話のネタが沸いてきます。このエネルギーのたどり着く先が、こどもたちそれぞれの人生の糧であると信じ、心のよりどころとする次第です。

我が家が子だくさん家族か?といえばそのような気もします。しかしながら、いったい何人子供を作れば子だくさんなのでしょうか。10人兄弟がさほど珍しくなかった時代は遠い昔です。

世の中は急速に少子高齢化時代を迎えています。高齢化は国民のみなさんが長生きして楽しい人生を謳歌すると言う意味で大いに結構。しかしながら、少子化は、社会の将来に思いをいたした場合、きわめて深刻な事実といわざるを得ません。少子化の進行は、現代社会のさまざまな問題を包含しており、一つの視点からくくることは困難で、危険を伴います。女性の社会的自立にともなう結婚年齢の上昇や、未婚者の増加は、ある意味でポジティブな側面 といえるかもしれません。

その反面、いうまでもないことですが、出生率の低下は確実に人口の減少をもたらします。 我が国の将来を支え、国民の多くが幸せな生活を送るために、はたしてどのくらいの人口が必要なのか、そのためにはどの程度の出生率を維持しなくてはならないのか。これは、統計学と経済学の問題であり、答えを出すことはさほど難しくはありません。

当たり前に結婚し、当たり前に子供を作り育てる、そういう社会を作って行かなくてはなりません。それに関してここで二つの問題点を指摘しておきたいと思います。まず、出産・育児の責任が女性の側に偏っていること。政府の策定したエンジェルプランなどを見ても、働く女性のための施策が目立つ反面 、育児を行う夫婦(あるいは家族)に対する支援という視点が欠如し、決定的な男女平等という決意は感じられません。もう一つは、育児に対する社会のバリアについてです。育児は一種の介護であります。育児の担当者には子供が独り立ちするまで我慢しなければならないことが多く、また子供を連れて出歩くには様々な制約が加わります。育児に関わるコストの問題を含め、社会が育児を行う夫婦の負担をいくらかでも軽くするような具体的な仕組みが必要ではないでしょうか。

政府は、過疎地の対策には熱心ですが、今や国全体が過疎に向かおうとしている現実から目をそらしているようにさえ思えます。そろそろ実効性のある具体的な施策が必要ではないでしょうか。(すでに手遅れでないことを祈ります)

私たちのホームページでは、現在、育児まっただ中の我が家の週末の出来事、すなわち私たち夫婦と子供たちの育児を通 した営みを紹介し、子供を育てやすい社会環境(育児バリアフリー社会)について提言して行きたいと考えております。私たちの経験から様々な情報提供をおこなってゆくのと同時に、皆様からの情報提供お願いしながら、進めてゆきたいと考えております。末永く、気長にそしてお気楽におつきあい願えればと思います。

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